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【心の詩歌】【公開記事】この短歌は既視感がある、とはどういうことか

短歌をやっていると「既視感のある短歌」という批判に出会うことがあります。
すでにどこかで見たような短歌で、心に響かない。
私はこれを、表現に新奇性がないのだと長年考えていました。

いまは、違う考え方をしています。
短歌一首に出会うのは、作者に出会うようなものです。
短歌が「人」だとすると、既視感がある言い回しは「自分の言葉を持っていない人」です。
考えながら自分の言葉で話す人が相手でないと、楽しくありません。

今年の北風が去年と同じ音で吹いていても、新鮮さが足りないと評する人はいません。風がいまの本当の自分として鳴っているからです。

短歌に出会うことは作者に出会うことだと考えると、他の問題にも新しい光を当てられます。

短歌にフィクションを詠むことの功罪、いわゆる「虚構問題」。

――面白ければ虚構でもいいじゃないか。
――嘘はよくない。
いろいろ意見があると思います。

短歌にフィクションを詠んでなおかつ面白いというのは、
作り話が上手な人に出会うようなものです。

短歌に実際の体験を詠んで目立たないというのは、
誠実で話下手な人に出会うようなものです。

体験談だと思っていたことが作り話だったとき、がっかりするかどうか。
こちらの受け取り方によっても違いそうです。

短歌を読むこと自体が人と出会うこと。

では、短歌を「詠む」ことは……?
自分と出会うことなのかもしれません。

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