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『深層との対話』川本千栄評論集 感想メモ

「うたが作った国民意識」
それほど大きなトピックにならなかったと思われている『愛国百人一首』が特攻隊員の遺詠に影響していることを指摘する。

「七度生れて」
特攻隊員の辞世の短歌が、極めて類似しているという話をしたあと、しかしその元となっている楠木正成・正季兄弟の故事と、微妙にニュアンスを変えていることを指摘する。ただの歴史的叙述にとどまらない、よい批評である。

「近代短歌やまざくら考」
ソメイヨシノ以前のヤマザクラが咲いていた時代の桜の短歌について述べている。
ソメイヨシノを前提に桜の短歌を鑑賞すると、たとえば一斉に散るかどうかなど、イメージを勘違いするかもしれないということを、改めて感じた。

「戦地という異国」

渡辺直己、前田透、山崎方代という三人の短歌を中心に、海外の戦地で詠まれた戦争詠を考察している。
前田透とチモールの特殊な関係について、解説しつつその短歌の魅力を教えてくれるが、チモールが地獄であった山崎方代の短歌についても語られており、多様な見方を確保している。

「前田透――その追憶と贖罪の日々」
「戦地という異国」で紹介した前田透とチモールの関係について、戦後のことまで含めて解説している。実体験としての戦争は、私達のイメージを裏切ることもある。

「渡辺直己とその評価」
渡辺直己の戦争詠が、対象を丁寧に描くその特徴ゆえに、「戦地詠の花形」から、「反戦歌人」へと、むしろ評価側の思想に沿ってイメージが変わったことを述べている。

「希望の国の崩壊――満州国の理想と欺瞞」
主に、満鉄の社員であった山本友一の短歌をとりあげている。
「会社のため、国を作る理想のため、身を削って働いたことが、結局は他国の侵略に繋がった」。
敗戦後の移住者の短歌も紹介されており、戦争の残酷さは、人の夢や志を変えてしまうところにもあると思わされる。

「間接体験としての戦争」
戦争の間接体験も戦争であるという視点から短歌を語る。見聞きした話を元にした短歌について。

「戦時下の『万歳』」
戦前戦中の人々のうちには、心から「天皇陛下万歳」と叫んでいた場合がもちろんあったということを述べて、現代の価値観を元に理解や感動を探していては結局は認識を誤るのではないかと問題提起する。すぐれた文章。

「歌詞は深く響く ―流行歌と短歌、その関連性―」
流行歌と短歌が、直接的な影響というよりも、似た変化を起こしているという話題。
サザンオールスターズの歌詞と、加藤治郎の短歌が、いずれも音韻重視であることを述べている。
加藤の短歌が聴覚的であることを、視覚的な側面が強かった前衛短歌からの変化として述べている。
次に、抽象化という観点から1990年頃のヒット曲と、「かんたん短歌」の面々、枡野浩一、加藤千恵、佐藤真由美に共通点を見出す。
ただ、この章の議論は少し怪しげに思われる。流行歌と短歌の共通点について、その抽象性を「箴言化」「応援歌」と整頓するのだが、「応援歌」については当たっている感じがしない。「愛は勝つ」「それが大事」「どんなときも」に比べると、十年後の枡野・加藤・佐藤はあまりに暗く、ヒリヒリしている。ここは、十年の間に日本経済の変化もあったかもしれないと思った。

「加藤治郎のオノマトペ」
加藤治郎においては、意味の明確な「日本語」ですらオノマトペとして使われているという仮説を述べる。正しいような気がするのだが、読んでいて、それが自分の短歌活動に関係があると思えなかった。

「仙波龍英 ~風俗詠と雪月花」
仙波龍英の短歌について、素材や手法の新しさ以外の側面、家族や、存在の不安といった切り口から読解した文章。歌人のまだ見えていない側面を見せるというのは、大事な仕事ではないだろうか。

「私の知らない『私』――渡辺松男に見る『深層の私』」
ユング心理学の話題から入るので、ユング心理学が科学ではなく宗教のたぐいだと思っている私にはとっつきづらかったが、渡辺松男自身がユング心理学を意識しているという指摘があり、それならば仕方ないと思って読んだ。

「光れる闇」
河野裕子の短歌についての文章。河野裕子の短歌はその健全さに着目されがちだが、死と生が両方宿っている点にも特徴があるという。

「変容する身体感覚」
自分の身体と、それ以外の世界の境界が怪しくなるような短歌について述べている。男性歌人の短歌からも探したが、三十代から四十代の女性の短歌ばかりになったという。身体の希薄化があるからこそ、身体を改めて確かめているという視点もある。

「〈われ〉の境界線」
河野裕子の短歌について、作歌上のテクニックとしての擬人法ではない、「〈われ〉の境界線のゆるさ」があると指摘する。

「社会詠、その二十一世紀の視点」
吉川宏志の短歌と、加藤治郎の短歌を引いて、加藤が自分の見解を明確にしていないという点について掘り下げようとする。
吉川の短歌にも加藤の短歌にも「加害者の視点」があり、正義が揺らいでいるという。
ほかにも「加害者の視点」を持った短歌を取り上げ、そして加害者の視点を持たない近藤芳美の短歌を取り上げ、しかし短歌史に引き継がれたのは近藤芳美であると指摘する。短歌界への批判性も持った文章である。
「今、二十一世紀を迎えて、従来の日本人の短歌には無かった知性と批評精神で社会を見据えて歌うことが必要とされるのではないか」。終盤でそう語る。賛成だが、この文章ではそれがどんなものかは示されていない。

「時間を超える視線」
谷岡亜紀の、架空の出来事の社会詠である連作と、田中拓也の実際の臨界事故をもとにした連作を並べ、その比較をする。
ただ、文章は谷岡の作品が優れており田中の作品が弛緩しているという前提で進むので、引用歌の読後感が違った私には理解し難かった。谷岡の作品は、一面的な社会の見方が反映されたものと感じたからである。もし、この作品で谷岡のほうが読者の心を打つとして、むしろ読者を批判してもいいのではないか。


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