逝去

祖母が星になった。

生みの親が両親なら、育ての親は祖母だったと言って良いくらいにはおばあちゃん子だ。

おばあちゃん子を通り越して、"おばあちゃん過激派"と自称したい。
それくらい愛していたし、愛を注いでもらった。とにかく大好きだった。

祖母は、私が幼稚園や小学生の頃に、家に帰るといつも100円玉をくれた。
100円玉を握りしめて近所の駄菓子屋に走り、
100円分の駄菓子を買って家に帰ると「あらぁ〜良いの買ったねぇ〜!買い方上手いごだぁ〜!」って目を丸くしていつも褒めてくれた。
買い方なんて考えたことも工夫したこともなかった気がするけれど、それでもなぜか得意げな気分になれたのは、祖母の感情表現が豊かで褒め方が上手だったからだと思う。

祖母はいつもおいしいご飯を作っては、私たちの家に届けてくれた。
その中でも特に、祖母のまぜごはんが大好きだった。私が関東で一人暮らしをはじめてからも、私は祖母のまぜごはんが恋しくなって、祖母の混ぜごはんを目指して何度も作ってみた。けれど、どれだけ試行錯誤しても、本家の味には到底及ばないそれを1人で食べながら、祖母と、祖母のまぜごはんに想いを馳せていた。

小さい頃に乗せてもらった祖母の自転車の後ろが大好きだった。祖母は自転車にまたがる前に必ずペダルに片足をかけて、トントンとステップを踏んでリズム良く勢いをつけて自転車にまたがり、力強くペダルをこいで、いろんなところに私を連れて行ってくれた。
私が大人になってから、祖母が私とドライブに行きたいって言ってくれて、私の運転で母と3人で仙台の旅館に行った。
あの頃、自転車の後ろで祖母の背中越しに感じた風や、見せてくれた景色のお返しをほんの少しだけできたのかなって思うと嬉しく感じた。

思い出は語り尽くせない。


訃報を受けた時は、どれほどの喪失感に襲われてしまうのか不安だったけれど、葬儀を終えた今、遺骨と遺影を前にして線香をあげると、そこにはおばあちゃんにいるような、会えているような不思議な感覚があって、「あぁ、だからこの風習は続いているんだな」って腑に落ちた。

もう2度と会えないだとか、もうこの世に存在しないだとかっていうのはいまだに信じられない。けれど受け入れなければいけない現実と無慈悲にも感じるくらい進んでいく世界。

明日からまた仕事が始まる。

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