見出し画像

センチメンタル、ごちそうさま。

「エモい」とか「センチ」みたいな言葉にどことない良さを覚えていた自分が段々遠退いているのを感じる。どうしてだろう、と思ったときに、そのどちらも明文化出来る自分になっていたからだと気づく。言葉にしない良さがあり、言葉にすることで感情に居場所が出来る、それもまた心地よいと気づいてしまった。そして言葉にしないであやふやにして余地を残すような余裕がもう無いことも。
センチメンタル、ごちそうさま。今までありがとう。あやふやにしておくことで多少はおいしく飲み込める現実があったから。強くは生きていけないけれど、少なくとも君にどっぷり浸っていたらカッコ悪いからもう行くね。




隣人が日々誰かを連れ込んで騒がしくしているのを迷惑に思いつつ、そうした儚い青春をおそらく私以外にかかっていない「迷惑」で潰していいものかと思案する。1ヶ月ほど堪えてきたけどそろそろ我慢も出来ないな!と小さく怒りながら、今日もどうせやり過ごす。
奪うこと、奪われること、小さな暴力はどこにでもいくらでもあって、生きている限りいつだって無自覚に加担している部分があるのだろう。それが途方もなく恐ろしく、そこから連鎖的に考える過去や未来のこともまた恐怖になって、眠れない。

誰かと暮らしたい、何か別の生き物と生きていきたい、とぼんやり思っていたけれど(昨日友人と話して薄々感づいていたものが明確になった)、私はそれらに「理由」を委ねたいだけなのだと思う。
生きていく理由。ここにいていい理由。この仕事を選ぶ理由。食べるものひとつ、服ひとつ、そこに簡単に理由が欲しい。言い換えればそれは指標で、そしてさらに言い換えれば「なにも自分で選ばない」という責任の放棄だった。究極的にはこどもでいたいと思っているのと変わらない。
大人になって、「学校」という社会に縛られることでどれだけ守られていたのかを感じてしまった。学生でいる利点が多い気がしてしまうのは、そこにいるだけで理由が出来て責任を免れられるから。
学生だから、課題をやってバイトをして、こなすように生きてこれてしまったけれど、社会人になって「はいじゃあ今日から全部あなたが選んでいいよ!ただし選ぶための知識は自分で拾い集めること!」とよーいドンさせられたら、コースもゴールも分からなくなってしまった。


私はずっと根底にどこか人とのズレを感じていて「ふつうになりたい、みんなと同じがいい!」と思って周りに上手に合わせられるようになりたくて、読めないなりに空気を読んで空気になったりして生きてきたけれど、みんな、も、ふつう、も無くなったらいよいよ自分がわからない。


仕事は頑張りきれなかった。勉強のために買ったテキストは辛くて開けないから、もしかしたらこのまま売ってしまうかもしれない。薄紙みたいな敗北が顔に体にぺらぺら貼り付いて気味が悪いかんじがする。眠剤は無理やりなだめられて寝付かされた感じがしたけれど久しぶりにまとまった時間眠れて嬉しかった。

22歳のうちに死のうと思っていた。死ねなかった。死ねないまま歳を重ねてしまいました。
誕生日だよと伝えたわけでもないのにLINEや会ったときに祝ってくれる人が思いの外たくさん居て、とても驚いたし嬉しいと思えた。ちょっとずつ大事にされながら、ちょっとずつどうでもよい存在として生きる自由があるのが楽に思える。私は私の意思でいつだって生きていていいし死んで良い。



23以降の未来を想像していなさすぎて、今白紙に何をどう描くか悩む時間をもらっている。案外テーマも決めずに描いていいんかもなと思う。人生の終わりに一枚の絵が出来るなら、真っ黒の紙に拙く彩った花火がいいな。ひとつひとつの色に、人生ですれ違うように関わった人、並走してくれたあなた、先を見せてくれる人がいる。その絵に「しあわせ」とか「ふつう」とか名付けてポックリ死にたい。



平和ボケnoteでした。日々ありがとうございます。それぞれに適当な距離感でゆるゆる仲良くしていただければ嬉しいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?