然
幸せを願うだけだなんて本当は無責任だ。どんな言葉も行動が伴わないときっと無責任なんだろうな、だからこそ、願うだけでなにもしないで居られることは楽で、でもどうしようもなく願うことしか出来ないことがあって、そんなときは苛立つくらい歯痒い。
互いに快適で居られる距離感まで離れたり近づいたりしながら生きてゆくのを「大人」と捉えたのはいつからだろうか。
自分の(心身の)バランスのために、どんなものとも近づきすぎず離れすぎずちょうど良くありたい。都合が良いことと大差ないとしても。
自分勝手でない愛なんか存在しない。笑ってもらうってどうしてこんなに簡単で難しいのか。大切に思うことは簡単で、大切に思われている、と思ってもらうことが難しいことに似ている気がする。
本来、誰の個人的な幸せにも関与しないことが一番幸せな気がしてしまった。
わたしはわたしで本当は一人で勝手に幸せになれるし、他の人だって多分わたしが居なくたって幸せでいられる。君がいた方が楽しい、それだけで人は人と関係性を持って、そこに寂しさとの相補性が生まれる以上、どこまでいったってやっぱりエゴだ。本当に死にたい人間に生きていてほしいなんてもう言えない。君は君のしあわせのために死んだって良いと思う。死への肯定ではない、ただ否定でないだけ。
もうひねくれすぎてしまったから、極論で言うなら(言いすぎるなら)、私は私を絶対に(恋愛的に)好きにならない人のことは永遠に愛せる気がする。私のことは知りすぎなくて良い、触れすぎなくて良い、近寄りすぎないで少しだけ遠くに居て欲しい。何かを大切にすると途端に自分を保てなくなる。信じることが辛いというより、信じて期待してしまっていた自分に気づかされることの方が辛い。
人と、近く、平たく言えば仲良くなってみたかった。何枚も防護壁をはって、その内側から絶対に踏み込まれない自分の領域を守りながらじゃないと、もう人と関われない。変えたくて変わりたくて、でもそうしたらまた壊れそうになってしまって出来なかった。7割の全力でしか生きられない癖に頑張りたいことも頑張れない。私を大切にしてくれる人と仲良くなりたいし大切にしたいのに、自分のことを打ち明けることの方が苦しくて、結果遠ざけることにつながってしまうのをやめられない。
抱え込んでいるつもりがないからこじ開けられている気になって余計に厄介だ、もう煙草とか吸って一瞬忘れたい。
悩みを人に打ち明けられないことが悩み、みたいな話。言えるようになったら言うっていつもおもうけど、言える頃には解決してどうでもよくなってる、いつもそんなかんじ。
雑記でした。本、手元に届いた報告や感想いただけて本当に嬉しいです。また本作ったことについても追々書きます。常々陰鬱として申し訳ないですが案外元気に生きています。では。