すこやか

去年買ったアウターを引っ張り出して今年も量産型イエティみたいになっている。安っぽくもこもこ。可愛さというより、これしか着るものがない、みたいな感じで着ている。収入が増えたり減ったりを何度か経験してきたけれど、やっぱり収入と精神の余裕はなんかどっか結び付いてて嫌になる。



極めてニュートラルというか、最も自由意思が尊重されるというか、よく言えば自由だし悪く言えば自分勝手な状態だな、と自分に対して思う。誰の何の干渉も受けず、自由に自分の予定を自分で組む、正直自分以外の誰かに構っている余裕がほとほと無い。自分以外の面倒を見れない。私はやっぱり今は、これからも、かもしれないけれど、自分のしあわせにのみ責任を持つべきなんだと思う。誰かを幸せにするなんて過信で傲慢だ、人は勝手に幸せになるだけだ。


今年はじめてマフラーを巻いた。かなり長いこと使っているマフラーで、買い換えちゃっても良いんだけど、柄が気に入ってるし毎年冬だけだからそれで乗りきってしまっている。
今年はなんだか服をたくさん買っている気がするな、仕事に着て行ける服が無さすぎるのです。好きな格好で仕事させてくれよ~と思いつつ、見た目(ファッション)である程度の印象が決まる事実を否めないでいるから、今日も大人しく「服がない!」って言う。


最近は比較的朝ごはんを食べるようになった。朝勝手に目が覚める。大抵、予定がなければ昼間に寝る。別に活動時間が延びたからって暇なことに変わりはないし、暇を潰すように生きることに罪悪感も以前よりは無くなった。磨耗したり、麻痺したりすることによって、ある種の鈍感さを身に付けることで生きやすくなっていくのはなんだか皮肉っぽいなとよく分からないことを思ってしまう。優しい人から死んでいくし、多かれ少なかれ皆はじまりは無作為だし、いたずらみたいに産まれてきただけの割にはよく生きてますよね私たち。何目線なんだろう。



皆のこと好きだし最早誰のことも特別に好きではないのかな、ずっとずっと「好き」とか「恋」とか「愛」とか「憧れ」について考えさせられている。つかれる。「一緒に居たい」って最早なんなんだ。お前はどこから来る感情で一体そのあとどうなるんだい。人生、というか感情とか思考にも体力が要る。忙しくなると自然に「誰に時間を使うか」でなんとなく選り分けてしまっているなと思う。少しでも居心地がよかったり楽しいと思える人と過ごしたいし、私がそう思う人には同様に思ってもらえたら嬉しいなと思う。


短歌や詩をまとめて一冊の本にしたいと考えている。きちんとした製本になるか、手作り感満載のあのかんじになるかは不明。貰ってほしい人には押し付けると思うし、そういう意味では必要最低限しか作らないかなぁとも思う。諸々私生活が落ち着いたらになるとおもうけど、そう言ってたらいつになるか分からないな。まぁゆるゆると、「楽しい」が「楽しい」のままでいられる速度ですすめていけたらいいなと思う。



楽しいって思えることが楽しい、とか、悲しいって思ったらぁあ生きてるなと感じたりとか、痛覚によって生を実感したりとか、一周や二周やを回ってしまっている感覚はきっといつかどこかで覚える人が一定数いるのだと思う。そこまでたどり着いた人間は大抵しぶとい。どうせ死なないんだろうな、みたいな前提に悲しくなってみたりする訳だから。放っておいても人はいつでも本来死のうと思えば死ねる。でも、そこだけに美しさがあるわけではなくて、生きてる間だって充分すぎるくらい刹那的だし、そういう瞬間瞬間で、一瞬一瞬で儚さや尊さは詰まっている。生きていくということはやはり死んでいくということだ。今日の私も明後日にはもう居ないかもしれない。明日のあなたはもう別人かもしれない。それでも言葉を尽くして関係性や互いを理解しようとする、そのどうしようもない人間性が最近果てしなく美しく愛おしく思える。

どの境地に居るんだ。書きなぐっちゃって精査も何もない文だなぁ、今日も健やかに食べたり眠ったりしてくださいね。

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