親孝行、祖父母への孝行といえば折々の休暇に顔を出すこと、みたいな慣行が、いまや会わないことが思いやりにとって変わられてしまったな、と感じる。
人間関係は往々にして面倒で厄介事が多くて、でも未だ人が人から生まれることはおそらく多くは避けられないでいるから、完全に誰とも精神的、物理的に繋がらないで生まれてくる人はいない。生きていくなかで生じる、生きていくための「面倒」があって、それを回避するための理由として感染症が用いられるように今やなっている。
その「会わない」が本音なのか面倒を避けてなのか、そこをずっと勘繰ってしまうような人間で、でもまた一面では「見せたい部分だけ見せてくれていたら良い」と思うのだから、わたしは面倒くさい人間だなと常々思う。
わたしに限らず多分人間はめんどくさくて、めんどくさい人間が関わらないと生きていけないんだから、人間関係がめんどうなのは当たり前のことなんだろうな。
そうは言いつつ、横断歩道を渡るときにライトを消してくれるドライバーとか、当たり前に私を避けて通り過ぎる自転車とか、何てことなく席を譲ってくれたり、行きずりに言葉を交わしたり、そういう小さな小さな、日記にも書き付けないような優しさばっかり拾い上げて嬉しくなって今日も私は生き延びている。


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あと何枚かで完成するパズルがあって、でも完成には明かに何ピースかが足りなくて、箱を探してみるけれど見つからずに、なんでだろうと悩んでいたら、そもそも初期不良で1ピースだけ足りない。みたいな、ずっとモヤモヤしつづけなくてはいけないような日々が続いている。神様じゃないから足りないピースを作ることは出来ないし、仮にピースを作ったとして、そのパズルの全体の完成度がお手製のピースのせいで落ちてしまうだろうことが予想できて、それが悲しくて作ることすらしないような日々。


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何か書こうと思って忘れた。流れの中にあって変化していくことだけが、生きているものの間で平等だ。


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近づいたり遠ざかったりするサイレンに、たまに「出ていけ」って言われている気持ちになったりする。noteにあげる日記は何日ぶんかまとめてあげてたりするから、一つの投稿のなかで感情が行ったり来たりしているものがある。一気に書き上げることもあるけど。字書いてないと、吐いてないと、生きていけない、多分。


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たまたま、奇しくも清潔に産まれ生きてこれてしまったせいで、こんなメンタリティで毎日生きちゃってて、嬉しいことの間に少しずつ諦めが居るし、楽しいことの間に確かに恐怖が居る。悲しいことの間には表に出てこないだけで怒りがあるのだろうし、怒りの間には自己嫌悪がある。明日からもめんどくさい自分とどうにかこうにかやっていかなきゃならない。「人に嫌われたくない」という心しかもう持ち得てない気がして、さも「利他」として振る舞うことの間に、どこまでもどこまでも「利己」があり続けるから、そういう自分の醜さを見つめ続けている。綺麗になんてなれないから、綺麗なものが好きだ。


暖かくしてちゃんと寝たり食べたり、出来る限り、していきましょうね。

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