日々振り返り

充実した日々を送っていたといえば聞こえは良いが、見つめるべき様々な問題を先送りにしていただけな気もする。去年以前のことは記憶が白飛びしていて覚えている部分と覚えていない部分がある。去年のGWのことは全く覚えていないけれど(GWどころか4~8月あたりの記憶がほぼない)、今年のGWはとても楽しかった。


深くて浅い話ばかり繰り返して、実はちっとも大切に思われていない。京都で出来た友人の多くはそんな気がしてしまった。地元の友達の方が互いの至らなさを許しあえている気がして居心地よく思えた。
でも居心地が良いということは相手に少なからず無理をさせていることイコールだから、手放しに喜べない自分がいて、今日も顔色を伺いながら生きてしまう。


大切にしてくれる人を大切にしていたい。それは勿論のこととして、そればかり続けていたら関係がどんどん閉じてしまうことに危機感を覚えてはいる。対策のしかたはまだ分からない。そうやって身を守りながら手探りで生きることが大人になってゆくということかもしれない。


返ってこなくなった手紙やLINEのひとつひとつを心に留め置くのをやめたい。ちくちくと地味に傷んでしまうから。
約束は守りたい。守れなかったらきちんと謝りたい。


「友達の約束を守らなきゃ それだけが僕の死ねない理由」という歌詞に心を撃ち抜かれて少し泣いた。全く同じ状況にあったことがあって、当時はあらゆる友人と大小様々な約束をして生き延びていた。当時支えてくれた皆にお礼がしたくて生きている。しかし未だ立ち直ることが出来ない傷として残り続けている。心が弱くてダメだ。そうやって膿んだ傷すら自分として愛してやれたらいいのに。

遠くから見るあなたは強くなった。きっともう心の一部が麻痺してしまったのだろう。心が機能しなくなったことを強さと呼んで良いのだろうか。

遠くから見るあなたはまるで私のことなど覚えていない。私は毎年あなたを思い出してその歳を数える。解けない呪いだ。やはりさよならはきちんとするべきだ。きちんと愛し合えなかったのに、さよならの前にするりと私の前にだけ現れるなんて卑怯だ。許さない、許せない、もうこれは愛でも恋でもなんでもなくただの執着だ。もう二度と会いたくないけれど、もう一度会えたらと考える。今日だって尻尾を振っていた自分にうまくさよならできない。

見つめる全てが面影になる。美しい歌詞だと思うし真理とも思う。
地元に帰ってきたことを一番喜んでくれているのは父と母だ。彼らは相変わらず仲が悪いけれど、私が帰ることで会話が少しでも生まれているようで良かった。(本人たちがそれを望んでいるかは分からない。)
そうして少し人生のぬるま湯に浸かりながら、伏線回収をし続けている。
あのときのあの言葉はこれがあったから、ということがあまりに続きすぎている。父も母もひとりの人間であることにようやく気づいたのでした。遅すぎる。
彼らと交わす会話のひとつひとつが面影になってしまう。どう足掻いても私がスムーズに生きてしまえば彼らが先に逝く。そんな姿は今でさえ見たくない。望むかたちで愛が得られなかったとしても、私は彼らを大切に思っている。


今日もああだこうだ悩みながらぶつくさ生きる。お腹が空いたのでこのあたりで失礼します。

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