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MIU404ロスと夏と祈りーゼロ地点からー

2020年夏の終わり、そして9月4日の夜のことを忘れないだろう。
TBS系金曜ドラマ「MIU404」の最終回は、22:00放送開始で15分延長、涙で歪んだ画面にタイトルロゴが大写しになり、私の夏が終わった。

このnoteは、MIU404に狂わされ最終回後未だ固形物が喉を通らないオタクの、どこまでも個人的な感想かつ悲痛な願いである。

初めに断っておくと、私は他人の視点を借りない文章が苦手だ。下手の横好きで小説を書くことはあるが、日記やブログ、エッセイというものが大の苦手で、今も非常に居心地の悪い気持ちで書いている。だから、このメモがどんなに稚拙でも許してほしい。読んでくれなくても良いが、誰かが読んでくれると思わなければ文章など1ミリも書けないから、ここでは優しい誰かか、放り出された迷子のような気持ちで打ちひしがれている仲間に届くことを祈って書く。
あと、MIU404を見ていない人にはなんのこっちゃという話が多いと思うので、そういう方がもしうっかりこれを見ている場合にはとにかく、ぜひ、このドラマを見てみてほしい。きっと損はしないと思うし、最後まで見れば必ず何かを感じてもらえると思う。

前置きがたいぶ長くなったが、まず、このドラマの最終回がいかに「続編の必要がないくらいに完璧だったか」という話をしたい。

最終回は非の打ちどころがなかった。
久住というラスボスの難解さは、彼自身が作中で指摘していた通り、「なにもしていない」というところにある。
いや、ドローンで護送中の容疑者を車ごと爆破し、ドラッグの生産を行った上で手ずから若者に売り捌いていたのだから、何もしていないはずはないのだが。
ただ、彼にはフィクションにありがちな「歪んだ悪役あるある」が搭載されていない。たとえば主人公に執着して何か攻撃を仕掛けてくるとか、一般人の感覚を超越して「面白い、これこそ俺の望んだ」とか言って妙なゲームを仕掛けてくるとか。そういう遊戯性がない。彼はただ「手段を選ばず」「人を人と思わず」邪魔を排除しただけだ。
だから、4機捜と久住の直接対決に際して、動機があるのは終始4機捜の方なのだ。
事実、久住が志摩と伊吹を揺さぶるような言葉を吐き、仲間に誘い信念を折ろうとするシーンは、どちらもドラッグに倒れた志摩と伊吹の悪夢だ。
あのシーンにおける「刑事じゃなくなったら」「他人なんかどうでも良い」「殺せないよなあ」「クズに戻るのか」「なんでひとりなん」という言葉の数々は、実は志摩と伊吹が抱く自身への疑念と信念の揺らぎ、そして後悔でしかない。実際の久住は彼らを床に転がした上で、海に放り込んで終わりにしようとしていたのだから。彼は最終対決に際して、徹底的に「邪魔の排除」しかしていない。
たとえばこれが、久住の方に彼らにこだわる理由があれば、綻びを作るのが簡単だったかもしれない。
しかし悪役が自分の遊戯性に足を取られる構図は、どうしても「悪役の物語」の介在を許してしまう。
MIU は違った。
それは久住のあの象徴的な台詞「お前たちの物語にはならない」に凝縮されている。
久住は人を人とも思わなかったが、自分をも人と扱わなかった。彼の視点は常に乖離していて、それが最後のシーン、生身の彼が追い詰められたシーンによく現れている。彼の周りには「人」がいなかった。人に期待するリアクションを待っても、彼のまわりにいたのは快楽に流された「死んでしもたらええ」人間だけなのだ。強いて言うなら、この空虚さが久住の物語なのかもしれない。

さて、話が逸れたが、MIUはこの空虚なラスボスを、きちんと警察の力で正面対決によって捕らえ、志摩と伊吹が抱えていた矛盾に答えを出し、それを確認し突きつけるに至った。
1話で志摩が伊吹の評価を保留にした点もしっかり回収され、「刑事やめないよな」と言う問いには「返事はいらない」とばかりに1年後の姿で答えている。
警察官としてのルールを破りひとりで突っ走ろうとしてしまった志摩と、刑事をやめてでも許さないと言い放った伊吹。彼らの姿は香坂とガマさんを彷彿とさせた。間違ってしまったこのふたりも、志摩と伊吹の延長にいる。全てがグラデーションだったんだということが強く印象づけられた上で、404が踏みとどまれたスイッチは希望の連絡。まさにこのドラマが一貫して投げかけ続けてきた「誰もが弱く、完全な正義も善もない。犯罪者も捜査官も、正義と間違いのどちらにだって傾く可能性をもった1人の人間である」という事実と、「それでも清廉潔白で強く、弱者の味方で正義を守らなければならない」という警察の使命との葛藤を見事に描き切った。

感想は山ほどある。ふたりのみた悪夢のシーンは、心臓を握り潰されるほど悲痛で体が震えたし、そこからの脱却、船からの脱出に始まる九重との合流後のシーンは、これまでこのドラマが培ってきた温度とテンポを最大限に使ってファン全員が見たかったであろう結末へ一気に駆け抜けた。
I♡JAPANのTシャツを着て、ゼロからやっていこうな、苦しくてもここで生きていくしかない。賛成も反対も全て飲み込んで流していったウイルスという敵にのぞむ「今」へのエールとあい。
プライム帯で社会問題に切り込んだMIUの最後のメッセージが希望で、本当にすごいと思った。そしてバディは継続、最後はふたりらしい掛け合いで軽妙に終わる。Happily Everafterほど単純ではないが、たとえ幸せ以外がふたりに押し寄せたとしても、きっと走っていけると思わせる最高のエンディングだ。

文句がない。

本当に最高だった。

心にしっかり焼印を残しつつ、見終わった後は爽快感と希望がある。

そんな最高のエンディングだから、私は突き放されて泣いた。

続編が作れないわけじゃないが「続編を書く必要がない」エンディングだった。

わかってはいたけど目の前が真っ暗で震えが止まらない。最終回は素晴らしかった。でも、余すことなく書き切られて、本当に彼らの物語が「閉じた」のだと突きつけられた。

先端を美しく切りそろえて電熱で丸められたような、パウチして保存されたような、アルバムに綴じ込まれたような。彼らが最高のエンディングをもって描き切られてしまった。
公式アカウントが「永遠です」とツイートしていて、泣いた。
永遠にされてしまった。上書きも更新もされない伝説になってしまった。
これは実写コンテンツだ。脚本と役者さんの演技が掛け合わさってキャラクターが生まれる。もう伊吹と志摩には二度と会えない。繰り返すビデオの中でふたりの駆けた時間を辿ることはできても、どうしよう、もう二度とふたりの紡ぐ会話には触れられないのだ。涙が止まらなかった。

最終回が近づくにつれて食欲が落ち胃痛が悪化していったが、そんな気持ちで続編を望んでしまうことも辛かった。
私は意地汚いオタクだが、終わりゆくコンテンツに寂しさを覚え涙することはあっても、ここまで続編を望んだことはなかった。
だけど今、最高の作品が堂々と完結したのを前に、その感動でも隠しきれないほどの焼けつくような悲しみがある。恋人と別れた時というより、恩師を亡くした時に近い悲しみだ。見事に完走し切ったエンターテインメントを、マックスの幸福で受け取れずに泣きながら「その先」を望むことが申し訳なくて、誰かに責められるべき行為ではないかとすら思った。

なぜこんなに終わりを受け入れられないのだろう?

MIUロスに涙する人が皆同じ理由かはわからないし多分違うと思うが、私はその理由を強烈なキャラクターの存在感だと考えている。
MIU404はアンナチュラル製作チームの2作目という触れ込みでも注目を集め、クロスオーバー要素でファンを喜ばせてきた。
しかし、当然の如く両者は異なる作品であり、共通点も多くあれど根本的にはかなり違うテイストを持っている。
脚本・野木先生のインタビューで印象に残っているコメントのひとつに、
「アンナチュラルで予想を超えてキャラが濃くなったのは中堂系(井浦新)だけだが、MIU404については主演の二人が好きに演じることによってキャラがとても濃くなっている」という一節があった。なるほどと思った。両者には、湿度や角度において決定的な違いがある。
MIU404は刑事もので、バディもの。ある種テンプレート的な構造と疾走感はキャッチーでありながら、それだけでは終わらない緻密なテンポ感と奥行きがある。MIUはバディものとしての魅力、つまりキャラクター性の強さが決定的だった。
対するアンナチュラルは、人の死から始まり、遺体解剖というプロセスを通して物語が進行する。視点の重きはMIUのそれより過去に傾く。MIUにも犯罪被害者や遺体自体は登場するが、主人公のふたりは機動捜査隊、事件発覚から最初の24時間を担う目まぐるしいポジションだ。彼らはメロンパン号で動き続け、傷ついたものにとっても傷つけたものにとっても最も情動の激しい、変動する24時間を走り抜けていく。
これは優劣や良し悪しの問題ではなく、物語の作り自体が異なるための差異だ。
キャラクター性の魅力をより全面に押し出すような構造で作られ、404コンビの怪演によってどんどん血肉を得ていったMIU のキャラクターは、「今までにないバディものを」という製作陣の目標を完璧に、見事に、これ以上ないくらいに達成している。

さて、名コンビ、名キャラクターというものは、半円環的な時間の中で何度も更新され続けることへの適性を持っている。と思う。
ホームズとワトソンでも良いし、トムとジェリーでも良い。スーパーヒーローやコナンくん、踊る大捜査線でも刑事コロンボでも良い。古畑任三郎だって相棒シリーズだってそうだ。たぶん。例えがなんとなく古くて申し訳ないが、まあ、そういうことだ。
彼らは新鮮で強烈な、そして既存の作品より圧倒的にリアルでありながらキャッチーな、一組のキャラクターとして完成したのだと思う。これは、「やり尽くされた」ジャンルにおいて「新しいバディものを、この時代のエンターテインメントを」という覚悟と目標を達成した、最大の証だと思う。

だから、もう彼らが更新されない、新しいふたりを見れないと思うだけで気が狂いそうになる。物語として大好きだ、それはもちろんだ。だけどそれだけじゃない。その上で、綾野剛演じる伊吹藍と、星野源演じる志摩一未というキャラクターそのものが、こんなにもいきいきと根付き、そしてその姿を通して希望を与えてくれた。

私は実は、アンナチュラルの続編を熱望してはいなかった。望む声が多いことを知って、たしかに続きがあるなら見てみたいとは思ったが、そこまで切望はしなかった。彼らの物語はベストの形で幕を閉じたのだから、あれで満足だと思っていた。続きがあったらそりゃもちろん見たいけど。

MIU404のこともそういう気持ちで見送れると思っていた。でも、できなかった。こんなにも苦しく、有終の美に食い下がってでも終焉を認められない自分が嫌で、いっそ出会わなければ良かったとまで思った。鳥肌がたつラブソングみたいなことを書いたが、本心だから仕方がない。

本当に続編を作る必要がないのか?
じゃあ、続編と呼ばなくても良い。新編でも、シーズン2でも、ニューフェーズでも、何でも良い。
有終の美への敬意と、続きを切望する気持ちは相反しないはずだ。私は両方とも抱えて泣いている。

マメジ役の生瀬さんがシーズン2をといってくれて、ポリまるくんが「続編」ということばに「あるといーなー」「シーズン2があるといいな」と言ってくれて、ああそう思って良いんだと許された気持ちで、泣いた。何より綾野さんが、「まずは完走すること、そしてそのあとにまだみたいと思ってくれたなら、いつかまたみんなでどんな形かはわからないけどサプライズができたら」と言ってくれて、本当に号泣した。望んでも良いのかと思って、涙が溢れた。ありがとう。
製作の皆様、こんなに最高の物語とキャラクターを生んだのだから、責任持って続きを見せてくれよ。

作中ではゼロ地点、延期になったオリンピック会場を写して、現実の時間に追いついて終わった。世界は今目まぐるしく変わっている。コロナショックに右往左往した2020年夏までを経て、この先、この変質の結果が社会に表出していく。物理的に分断を求められた隔絶の世界は、作中の2019年までとは決定的に違うものだ。自粛警察に代表されるような、善意の暴走と断罪、目に見えないものとの戦いで疲弊していく社会、ニューノーマルが定着するに連れて徐々に可視化されてきた、新しい弱者たち、新しい孤独。そして長い政権が終わり、組織と権力、利権という社会問題に、私たちは今こそ向き合えるのか?それともこのまま濁った水も引き継いで、日本はまた変わらないのか。これは、たとえば警察庁に戻った九重くんが組織というものを見つめる視点に被る部分も、あったりなかったりしないだろうか。
そして物理的にも精神的にも、「距離」がテーマとなるこの時代に、シーズン1を経て相棒と認め合ったふたりがどうやって向き合っていくのか。激動かつ決定的に不可逆な2020年の夏を経て、伊吹も志摩も、きっと新しい戦いがあるはずだ。それを見せてくれないだろうか。

MIU404は最高だった。
文句なしの完結、走り切って結末を続編に持ち込まない。映画化も有料プラットフォームへの誘導もない、美しいエンディング。本当にありがとうございます。毎日途方に暮れて泣いてた、コロナ禍に埋もれた私に希望をくれてありがとう。最高のエンターテインメントでした。

その上で、
新しい、つぎのMIU404を見せてほしい。ゼロ地点から、伊吹と志摩の新しい物語を。
完結したシーズン1への最大の賛辞として、そして悲痛な願いとして、今もどこかで404が走る東京の片隅から、彼らの物語が更新されることを祈っています。


シーズン2を待っています。


「またな、伊吹 お疲れ様でした」というコメントと写真に泣き崩れて、綾野さんの優しさと現実に突き刺されたオタクより


またね。

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