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べーシックインカムとは何か?メリットとデメリット、減税との違いなどを解説

今回は、「べーシックインカムとは何か?」を説明する。

べーシックインカムは、様々な立場や派閥から、様々な意見や評価のあるものなので、教科書的な説明というのが難しいが、べーシックインカムの定義と特徴から、「こう考えるのが妥当」という見解を示そうと思う。

結論を先に言うと、べーシックインカムは、「全国民に無条件で同じ額面」という形で「同質性」を機能させるものであることを踏まえるならば、保守主義的なものに近いと考えるべきだ。


べーシックインカムの定義について

まず、べーシックインカムの定義の話からする。

べーシックインカムは、辞書的な定義では、「政府が全国民に対して定期的かつ無条件に、最低限の生活を送るのに必要な現金を個人単位に支給する制度(スーパー大辞林)」とある。

ただ、ここでは、辞書による定義から、「最低限の生活を送るのに必要」という部分をなくす。

理由としては、「最低限の生活を送るのに必要」というのは、そもそも「最低限の生活とは何か?」となって解釈の幅が広くなりすぎるというのと、すべての国民に働かなくてもよくなるような額面を配るのは、政策として極端なものになりすぎるからだ。

そのため、ここでは、「最低限の生活を送るのに必要」という条件をなくして、「政府が全国民に対して定期的かつ無条件に、現金を個人単位に支給する制度」をべーシックインカムと考えたいと思う。

さらにここでは、より簡略化して、「全国民に無条件で同じ額面を配る」のがべーシックインカムであると考えることにする。

この場合、金額の大小は、定義には含めない。(この額面以上ならべーシックインカムで、これ以下ならべーシックインカムではない……といったようなことは考えない。)

そのため、例えば、「全国民に毎月1万円」みたいな少額を配るものでも、定義上はべーシックインカムであると考えることにする。

一方で、もらえる人ともらえない人がいたり、人によって額面に差をつける段階的な給付であった場合は、ここでの定義上はべーシックインカムではないことになる。「全国民に無条件で同じ額面」という定義に反するからだ。

「べーシックインカムとはこのような定義であるべきだ」と主張したいわけではない。

あくまでこの記事においては、「べーシックインカム」を以上のような定義のものと考えるということだ。


「自由」と「福祉」の両方に反するものがべーシックインカム?

「全国民に無条件で同じ額面を配る」のがべーシックインカムであるとした上でも、それがどういう方向性の政策になるかは、「どれだけ税を取るか?」や「他の社会保障費との兼ね合い」や「どれだけの額面を配るか?」などの条件によって大きく変わる。

例えば、「市場競争」を重視する立場の人は、現状の社会保障の行き過ぎ(政府の肥大化)を問題視して「べーシックインカム」を提唱することが多い。この場合は、税率を増やさずに、社会保障費を削減して、少額のべーシックインカムによって福祉を簡略化しようとすることになる。

これは、「自由主義的」な方向性を強めるものとして、べーシックインカムが望ましいと思われるパターンだ。

一方で、「社会福祉」を重視する立場の人は、現状の社会保障はそのままに、増税などによって「べーシックインカム」を実現させようとすることが多い。「べーシックインカム」は、受給する当たってスティグマなどがない社会保障といった、より福祉が手厚くなった社会を実現するための手段として、望ましいものと考えられやすい。

このように、「福祉国家的」な方向性を強めるものとして、べーシックインカムが望ましいものと思われる場合もある。

同じ「べーシックインカム」という政策でも、徴税や社会保障とのバランスによって、市場原理を重視する「自由主義的」な政策にも、社会保障を重視する「福祉国家的」な政策にも、どちらにもなりうるということだ。

もちろん他にも、べーシックインカムには、多種多様な論点がある。

ただここでは、説明を簡略化するため、ひとまず、「自由」を重視する側と「福祉」を重視する側との対立があり、それぞれべーシックインカムの賛成派や反対派がいると考える。

「自由」を重視する立場の人たちは、「自由主義的」なべーシックインカムには賛成するかもしれないが、「福祉国家的」なべーシックインカムには反対するだろう。「福祉」を重視する立場でも同様のことが起こる。

つまり、同じ「全国民に無条件で同じ額面を配る」という定義のべーシックインカムにおいて、「自由」を重視する側から賛成や反対があり、「福祉」を重視する側からも賛成や反対があるので、議論が混乱しやすいのだ。

では、それについて、ここではどう考えるかというと、実は、べーシックインカムは、この図式における「自由」と「福祉」の、両方に反するものであると主張したい。

これは、「自分はこういうべーシックインカムが望ましいと思う」という話ではなく、「全国民に無条件で同じ額面」というべーシックインカムの定義から考えるなら、それは、「自由主義的」な政策と「福祉国家的」な政策の、どちらにも反するものになる、と主張したいのだ。

以降では、なぜべーシックインカムが、「自由」や「福祉」に反する性質のものなのかを説明していく。


「実質的な平等」と「形式的な平等」

説明のために、まず、「平等」という概念について整理をしたいと思う。

国家が国民に支出をしようとするときは、「平等」が意識されることが多い。

「平等」において、各々が抱える弱者性の程度は異なるので、ハンディキャップを抱える人にもそうでない人にも、全員一律にまったく同じ待遇を与えると、それはむしろ「平等」に反すると感じる人が多いだろう。

一方で、全員にまったく同じ待遇が与えられることも、ある種の「平等」ではある。

それらを区別するために、ここでは、「実質的な平等」と「形式的な平等」が対立する、という図式を考える。

「実質的な平等」は、より大きなハンデを抱えた人ほど厚く支援するなど、「差をつけようとする作用」であり、「形式的な平等」は、あえて個別の事情を加味せずに全員一律に同じ扱いをしようとし、「差を否定しようとする作用」であると考える。

  • 「実質的な平等」……差をつけようとする作用

  • 「形式的な平等」……差を否定しようとする作用

現状の「社会保障」は、何らかの弱者性を認められることで支給されるので、基本的には「実質的な平等」を目指す側であると考える。

一方で「べーシックインカム」は、全員に同じ額面の金額を給付するものなので、「形式的な平等」の側になる。

ここで、「どうやったらべーシックインカムが実現するか?」を考えたときに、「実質的な平等」が重視されている状態であれば、「べーシックインカム」はいつまで経っても実現しないことを指摘したい。

「国家が分配可能なリソースはどれくらいあるか?」は議論の渦中にあり、例えば、自国通貨建ての国債を発行できる日本は、今よりももっと政府支出を増やすことができると主張する人もいる。

財政の議論にはここでは立ち入らないが、もし仮に、今の政府や役人が想定しているよりも実は分配できるリソースが多かったとしても、だからといって、「じゃあそれをべーシックインカムとして配ろう」となるわけではない。

現在、政府の支出をめぐっては、全員が「足りないからもっと予算をよこせ」と言って分配の権利を争っている状態だ。

そのため、たとえ予算がどれだけあっても、それを「べーシックインカム」として配ろうとすると、「なぜ困っている人がいるのに、困っていない人にも配られるべーシックインカムなのか?」となり、より高い優先権を勝ち取った人たちが予算を持っていく。

つまり、優先度に差をつける「実質的な平等」が重視されている状態であれば、いくら予算があっても、「べーシックインカム」という形で配られることにはならないのだ。

「では、べーシックインカムであることの意味はいったい何のか?」を示すために、ここで、「実質的な平等」と「形式的な平等」それぞれの、メリット・デメリットを考えたい。

現在の社会保障が「実質的な平等」を志向し、べーシックインカムが「形式的な平等」を志向するものであるとして、両者にどのようなメリット・デメリットがあるか、これから説明をしていく。


「実質的な平等(社会保障)」のメリット・デメリット

「実質的な平等」のメリットは、それ自体が「個人の権利が尊重される」という点において望ましいものであることだ。「実質的な平等」を重視するほど、分配の正当性が高まり、個人が尊重されることになる。

一方で、デメリットは、支援の優先権をめぐって「競争」が起こり、そこに多くのリソースが消費されてしまうことだ。

社会保障(実質的な平等)をめぐっては、「誰も蔑ろにしない世の中を目指す」という前提の上で、「誰がより重点的に救済されるべき弱者か?」という争いが起こる。

これについては、「弱さを競う競争(社会保障・ポリコレ)が起こっていることをどう考えるべきか?」という記事を出しているので、それを参考にしてほしい。

福祉のリソースは有限であり、弱者性を認められた者が支援の対象になるなら、その限られた枠をめぐって競争が行われ、それは「弱さを競う競争(マイナスの競争)」という形になると、上の記事では述べてきた。

社会保障は、困っていたら自動的に与えられるようなものではなく、制度があることを知って、その内容について学び、窓口まで足を運んで、自分に資格があることを証明して、受給する権利を勝ち取る必要がある。

もはや社会保障を受けられる権利は、いざというときのためのセーフティネットではなく、ある種の「競争に勝利して勝ち取るもの」になっているのだ。

そのような「マイナスの競争」は、個人の弱者性に支援を与えるという点において社会に不可欠のものだが、競争のために膨大なコストがかかる。

各々が「自分こそが弱者である」と主張し合って、それについて議論し、制度を作り、審査をしたり事務手続きや書類仕事をしたり……というのは、非常に手間がかかり、そして、そのために投入されるリソースが、分配するもとの余剰を増やすわけではない。

つまり、「分配の正当性を高めるものの、分配するもとの余剰は増やさない」というのが、「実質的な平等」を重視するということで、個々人の負担が増えていくのにマクロでは余剰が増えなくて、全員が苦しくなっていきやすい。

それに対して、では、そういう分配の正当性を高めるための競争をやめて、その競争に使われていたリソースを、住環境の整備や食糧生産のような物質的な余剰の生産や、社会に必要な仕事を効率化するための研究開発などに注ぎ込めば、全体としては楽になりやすいのではないか、と考えることができて、それを意図するのが「形式的な平等」になる。

つまり、競争を否定することで、「雑に配るかわりに、全体が楽になりやすい」という状況を作ろうとすることが、「形式的な平等」を重視することの意味であると、ここでは考える。


「形式的な平等(べーシックインカム)」のメリット・デメリット

例えば、AさんとBさんがいたとして、弱者性の程度としては、Aさんのほうがよりハンディキャップを抱えていると仮定する。

「実質的な平等」が重視される場合、弱者性の主張のし合い、議論、審議、制度の設立、事務手続き、書類仕事などが行われて、その結果として、AさんがBさんよりも多くの支援を与えられることになりやすい。

これは、Aさんの弱者性が認められたという形で、「分配の正当性」が高まったと言えるが、同時に、そのために多くの余剰の生産とは関係のないリソースが使われたことにもなる。

一方で、「形式的な平等」が重視される場合、AさんとBさんの扱いはまったく同じになる。

これは、「Aさんが抱えているハンディキャップに何の配慮もされない」という点においては、個人の弱者性に配慮された社会ではなくなった。ただ、「実質的な平等」のために使わなければならなかったリソースは浮くので、それを余剰を増やすような仕事に注ぎ込めば、全体の取り分は大きくなりやすい。

AさんとBさんに与えられる支援がまったく同じだと、Aさんとしては不満を持ちやすいかもしれないが、分配するもとの余剰が増えれば、全員が楽になるし、Aさんに与えられる絶対的な支援の総量も、むしろ「実質的な平等」が重視されていた場合よりも多くなることもあり得る。

ここではAさんとBさんという形で単純化したが、もちろん実際にはものすごく大勢の人たちがいて、それぞれの抱えている弱者性が異なるといった状況が今の社会で、「実質的な平等」と「形式的な平等」のどちらを重視すべきか、という問題があることになる。

「実質的な平等」を重視する場合、分配の正当性は高まるが、そのためにリソースを消費してしまうので、分配するもとの余剰は小さくなりやすい。一方で、「形式的な平等」を重視する場合、分配の仕方が雑なものになるかわりに、分配のためにリソースを使わないので、分配するもとの余剰が大きくなりやすい。

つまり、「形式的な平等」であるべーシックインカムは、「雑に配るかわりに、浮いたぶんのリソースを余剰の生産に使って、社会全体を楽にしてこうとする」という方針の政策になる。

そのメリットは、競争にリソースを使わなくなるので、マクロでは全員が楽になりやすくなることであり、デメリットは、各々の弱者性が厳密に反映されない、相対的には弱者が不利になりやすい社会になることだ。


べーシックインカムは「自由」や「福祉」と対立し、「保守」に親和的

なぜ大多数の国家で「資本主義」が採用されているのか?共産主義が崩壊した理由も解説」や「弱さを競う競争(社会保障・ポリコレ)が起こっていることをどう考えるべきか?」といった記事では、「競争」と「協力」が対立するという図式を提示してきたが、この記事もそれを引き継ぐことにする。

ここでは、「競争」という「差をつくる作用」を「正しいが、豊かにならない」、「協力」という「差を否定する作用」を「豊かになるが、正しくない」ものとした上で、両者が対立する関係にあると考える。

この図式において、社会保障のような「実質的な平等」は、分配の正当性を競い合う「競争」が起こるので、「正しいが、豊かにならない」側になる。

一方で、べーシックインカムのような「形式的な平等」は、あえて全員に同じ額面を配るという「差を否定する作用」であり、「豊かになるが、正しくない」という特徴を持つ「協力」の側になる。

さらに、これは、当noteの過去の記事で語っているのだが、社会保障のような「弱さを競う競争」のみならず、市場競争(ビジネス)やメリトクラシーのような「強さを競う競争」も、「正しいが、豊かにならない」側になる。

市場競争のような「強さを競う競争」が、実は「豊かさ」に反する、という論点については、通念を疑うような話になり、簡単に説明をするのが難しいので、「競争を疑うのが難しい理由(近代的理性が本能を肯定するという話)」や、「なぜビジネスは悪質になるのか?市場のルールが社会に与える影響について解説」や、「なぜエッセンシャルワーカーの給料が低いのか?社会に必要な仕事が市場に評価されない理由」などの、当noteの過去の記事を参考にしてほしい。

過去の記事では、市場のルールは社会に必要な仕事を評価できず、実はビジネスのような競争は「ブレーキ」として作用するのだが、個人の主観ではそうは思いにくいことを指摘してきた。

(上のスライドは「なぜビジネスは悪質になるのか?市場のルールが社会に与える影響について解説」より引用)

冒頭で、べーシックインカムが、「自由主義的」な政策と「福祉国家的」な政策のどちらにも反するものになると述べたが、その理由が、ここで提示した「競争」と「協力」との対立にある。

ここでは、「市場競争」と「社会福祉」が対立しているとは見なさず、「市場競争」と「社会福祉」はどちらも「競争(差をつくる)」側であり、べーシックインカムを、それと対立する「協力(差を否定する)」側のものであると考える。

「協力(差を否定する作用)」である「べーシックインカム」は、「自由主義(市場競争)」や「福祉国家(社会福祉)」のような「競争(差をつくる作用)と対立するのだ。

ちなみに、べーシックインカムと同じ「協力(差を否定する作用)」にあたるのは、「伝統」や「ナショナリズム」といったものになる。

つまりべーシックインカムは、保守主義的なものと親和性がある。

これは、「自分としては保守主義的なべーシックインカムが望ましい」という話ではなく、べーシックインカムの「全国民に無条件で同じ額面を配る(差を否定する)」という性質を踏まえれば、そう考えるのが妥当、という主張だ。

実態として考えても、べーシックインカムは、保守やナショナリズムと親和性がある。

まず、当然ながら、具体的な制度の実現には「国家」に多くを頼ることになるし、べーシックインカムが配られるようになると、その受給対象である「国民」かそれ以外かが強く意識されるようになる。

また、べーシックインカムの意味は、余計な「競争」をやめさせて豊かさに繋がりやすい仕事にリソースを振り分けることにあるので、国家主導の産業政策に近い側面もある。

さらに、実際にべーシックインカムが配られるようになった社会を想像してみるとわかるが、べーシックインカムは、伝統的・保守的な形で生活している人を有利にしやすい。

全国民で無条件に同額が与えられるようになれば、大家族で暮らしていたり、子供を育てている人が有利になりやすくなる。集団で住むほど、生活に必要なコストが下がりやすい一方で、べーシックインカムは人数分もらえるからだ。

このように、べーシックインカムは、ナショナリズムや伝統といった「保守」とむしろ親和的で、その理由は、意図的に「差を作らない」ことで「競争」を否定する作用だから、というのが、ここで提示している整理の仕方だ。


なぜ減税ではなくべーシックインカムなのか?

ここまでで言いたかったことをまとめると、「自由」を重視するか「福祉」を重視するかという対立があり、そのどちら側にもべーシックインカムの賛成派がいたり反対派がいたりするのが現状だが、「自由」と「福祉」はどちらも「競争」の側で、べーシックインカムはそれと対立する「協力」の側になる。

ただ、「自由」の側や「福祉」の側から、べーシックインカムが問題の解決に見える(べーシックインカムを肯定したくなる)というのは、おかしなことではない。

分配のもとになる余剰を作り出すのは「協力」なので、「競争」の過剰で苦しくなっているときに、「協力」のほうに寄せていくことは、実際に根本的な解決策になる。

一方で、「競争」と「協力」は、「差を肯定するか・差を否定するか」という根底にあるコンセプトが対立しているので、当然ながらべーシックインカムの反対意見も多くあるのだ。

このような図式を示した上で、「べーシックインカムと減税はどう違うのか?」について説明をすると、まず、「徴税」は、「所得の差」という「市場競争」が生み出した秩序を、国家の権力によって否定することであり、「協力」の側に当たる試みになる。

そのような「徴税」を弱める「減税」は、基本的には、市場という「競争」の秩序を強めることになりやすい。

細かいことを言えば、徴税も、やり方によってどちらに振れるかが変わる。

累進課税によって、多く稼いだ者からより多く徴税すると「協力」側に振れやすくなり、中間層から多く徴税すると「競争」に振れやすい。

ただ、基本的には、市場競争の結果から「国家権力」がリソースを徴収することは、「国民」という「同じ集団」を重視することになり、「協力」の側になる。

つまり、「減税」は「競争」の側を強めやすく、「べーシックインカム」は「協力」の側を強めやすいというのが、減税とべーシックインカムとの違いだ。

単純に考えて、国家が累進課税で税金を徴収し、それをべーシックインカムという形で国民全員に同じように配れば、「競争」を否定して「協力」を重視することになる。

とはいえ、今の社会は、市場競争という「強さを競う競争」から国家が徴税しても、その支出先をめぐって、「実質的な平等」を重視する「社会保障」という「弱さを競う競争」が行われているので、結局は「競争」が過剰になってしまいがちだ。

そして、「市場競争(強さを競う競争)」と「社会保障(弱さを競う競争)」の組み合わせによる「競争」の過剰に対処できる可能性のある政策が、べーシックインカムであると考えている。


「協力」を重視するが、極端にはなりにくい

べーシックインカムは、「余計な競争をさせない」という方針を国家が打ち出すということになり、「自由」や「福祉」の概念と対立するような、現代の「正しさ」に反する性質を持つ。

ただ、べーシックインカムは、伝統を復権しようとしたり、ナショナリズムを強めようとするよりは、やり方としてはマイルドなものと言える。

べーシックインカムが極端に振れにくい理由として、それが「貨幣を配る」ものであることが挙げられる。貨幣を配る政策は、貨幣価値を維持する努力とセットでなければ意味を持たないので、「市場」を無視することができきない。「市場」という「競争」の作用を無視できない点において、べーシックインカムは、極端なものにはなりにくい。

また、特定層を優遇しようとする権力者による価値判断が介在せず、老若男女あらゆる国民にまったく同じ給付が与えられるという点においても、極端には振れにくいと言える。弱者を優遇しない方針を強めることにはなるが、国民全員に恩恵が与えられる形ではあるので、そこまで加害的なものにはなりにくい。

つまりべーシックインカムは、極端になりにくい形で、社会を「競争」から「協力」に少しずつ傾けていこうとする方法であり、そのようなやり方で、「競争」の過剰という問題に対処していこうというのが、このnoteにおいてべーシックインカムを提唱している意図になる。

このようなべーシックインカムについては、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトで詳しく論じているので、かなりの長文になるが、よければサイトのほうも読んでみてほしい。

なお、ここでは、べーシックインカムを、国家が金を配る判断をしさえすれば、それだけで社会が豊かになっていくようなものとは考えていない。

べーシックインカムを配らないとこれ以上の豊かさを実現しにくいという話」という記事では、べーシックインカムを、まずは少ない額面から配り始め、「供給力の向上」と同時並行で、少しずつ与えられる額面を増やしていくものとして提唱している。

べーシックインカムは、余計な「競争」を否定して、その余ったリソースを生活を楽にするような仕事に注ぎ込むことで、社会全体を豊かにしていこうとする試みになる。

ゆえに、べーシックインカムだけでは片手落ちで、「供給力を向上をいかに進めていくか」をセットで考える必要があるのだ。

そして、このnoteや、「べーシックインカムちゃんねる」というyoutubeチャンネルを見てもらえればわかると思うが、ここでは、「供給力の向上」が、「市場」に任せれば行われるとは考えていない。

今後、べーシックインカムの両輪となる「供給力の向上」をいかにして進めていくかについて語る内容のものも、このnoteで投稿していく予定だ。

なお、それに該当する内容のものは、すでに「べーシックインカムを実現する方法」というサイトに書いているので、先に内容を知りたければ、サイトのほうを読んでみてほしい。


まとめ

  • ここでは、「全国民に無条件で同じ額面を配る」のがべーシックインカムであると考える。

  • べーシックインカムは、「どれだけ税を取るか?」「他の社会保障費との兼ね合い」「どれだけの額面を配るか?」によって方向性が変化し、「自由」を重視する側・「福祉」を重視する側の両方から、それぞれ賛成と反対があるので、議論が混乱しやすい。

  • 当記事では、「全国民に無条件で同じ額面を配る」べーシックインカムには、「自由」と「福祉」の両方と対立する性質があると主張している。

  • 説明のため、「平等」の概念を、「実質的な平等(差をつくる)」と「形式的な平等(差を否定する)」に分類し、社会保障を前者、べーシックインカムを後者とした。

  • 「実質的な平等(社会保障)」は、個人の弱者性を尊重するが、支援を与えらえる権利をめぐって「競争」が起こり、その競争が分配のもとになる余剰を増やすわけではないので、マクロでは全員が苦しくなりやすい。

  • 「形式的な平等(べーシックインカム)」は、全員を等しく扱うことで個人の弱者性を軽視するが、競争しなくてよくなるので、分配のもとになる余剰を増やしやすく、マクロでは全員が豊かになれる可能性がある。

  • つまり、べーシックインカムの意味は、分配のための競争を否定して、浮いたぶんのリソースを余剰の生産に使うことで、社会全体の余剰を増やしていこうとすることにある。

  • (当noteの過去の内容から、)「市場競争」と「社会保障」は、どちらも「競争(差をつくる作用)」であり、べーシックインカムは「協力(差を否定する作用)」なので、「自由・福祉」の双方と、「べーシックインカム」は対立する。

  • べーシックインカムは、同じく「協力(差を否定する)」を志向する、伝統やナショナリズムのような保守主義的なものと親和的だ。実際にべーシックインカムは、国家権力を強める政策になりやすく、伝統的な形で生活している人たちを有利にしやすい。

  • 国家が「市場競争」から徴税して国民に再分配すると、「競争」よりも「協力」を重視することになりやすい。ただ、現在は国家の支出先をめぐる「社会保障」においても「弱さを競う競争」が行われているので、「競争」が過剰になっている。そのような問題を、べーシックインカムによって対処できる可能性がある。

  • べーシックインカムは、「競争」よりも「協力」を重視する政策だが、「貨幣を配る以上は市場競争を無視できない」や「全員を等しく扱うゆえに特定の層を害するものにならない」などの理由で、それほど極端なものにはなりにくい、という特徴がある。

  • べーシックインカムの意味は、「競争」を否定して、余ったリソースを余剰の生産に使うことにある。そのため、国家が金を配る判断をしさえすれば社会が良くなるといったものではなく、「供給力の向上をいかにして進めていくか」を考える必要がある。


今回の内容は以上になります。

youtubeでも似たような内容の動画を投稿しているので、よければyoutubeチャンネルのほうも見ていってください。


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