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なぜ自由恋愛は地獄になるのか?男女の信頼関係を再構築する方法を語る

今回のテーマは、「自由恋愛がいかにヤバいのか?」だ。

前半では、「恋愛と結婚の違い」「男女の非対称性(男女にとって恋愛は同じものではないこと)」を説明し、後半では、「自由化が進むことで恋愛や結婚が難しくなっていくという問題に対して、いかにして男女の信頼関係を再構築していくことができるか」について述べている。


なぜこれまでの社会で「結婚」が重視されてきたか?

子供を産み育てること(人口の再生産)は、社会の根幹であり、その前段階である恋愛や結婚も、当然ながら非常に重要なトピックと言える。

現在の社会は、「恋愛結婚」という、自由恋愛の結果として結婚をするというのが基本的な形とされている。

しかしよく考えれば、「恋愛」と「結婚」は、素直に繋がるようなものでもなく、むしろ正反対のコンセプトを持ったもの同士だ。

「恋愛」に「自由」という性質があるとするなら、「結婚」には「不自由」という性質がある。

「結婚」は、それをしたあとは好きに恋愛をしてはいけないという「不自由」な契約であり、逆に、そのような縛りのない「自由」な状態での関わりが「恋愛」と言える。

伝統的な社会においては、「恋愛」のような「自由」は禁止されることが多く、「結婚」という「不自由」が前提だった。

一方で、よく近代文学などに描かれてきたように、「恋愛」におけるロマンチシズムは、伝統的な社会に対する個人の「自由」を象徴するものだった。

このように、「伝統(不自由)」が「結婚」で、「近代(自由)」が「恋愛」であるとして、ここではまず、なぜ「結婚」という「不自由」な制度が伝統的な社会において尊重され続けてきて、そしてなぜ近代化が進むほど否定されるようになるのかを説明する。

「結婚=幸福」というイメージを持っている人は多いかもしれないが、そのようなイメージ自体が伝統的な価値観によって強められてきたものであり、実際は、「結婚」には、「個人の本能的幸福を否定するが、集団を強くするゆえに尊重されてきた」という性質がある。

現代人が結婚できなくなった(しなくなった)理由」や「競争を疑うのが難しい理由」といった当noteの過去記事では、我々サピエンスの「本能」と「社会」とに乖離があることを説明してきた。

サピエンスの「文明(社会制度)」には、「本能」に逆らってでも集団を強くしようとする、という性質がある。

なぜそうなるかというと、そういう本能に逆らうような「社会制度」を備えた集団が、これまでの歴史において生き残ってきたからだ。

自然な生物は、有利な「本能(遺伝子)」を備えた個体が生き残る。

一方でサピエンスの場合は、有利な「社会制度(遺伝子の外部)」を備えた集団が生き残る。

サピエンスは、自らの「遺伝子の外部」に多くを頼ることで強くなってきた種であり、サピエンスの生き残りをかけた争いは、「本能(遺伝子)」ではなく、「社会制度(遺伝子の外部)」によるバトルになりやすいのだ。

「社会制度」は、たとえそれが「本能」に反するものであっても、それによって集団が強くなるのならば、尊重されるし受け継がれていく。そうする集団が生き残って、それをしない集団が滅びるからだ。

そして、「サピエンスの本能的な幸福には反するものの、それを尊重してきた集団が生き残ってきた」という理由で今も重視されているのが、「結婚・婚姻」という社会制度と言える。

原理的には、生殖をして人口の再生産をするのに、結婚という制度は必ずしも必要ない。しかし、これまでの人類の歴史において、結婚という制度を持たない集団と、結婚という制度を強めてきた集団とで、後者のほうが生き残りやすかったと考えられる。

例えば、自然な(本能的な)感情を重視して生活している集団がいるとする。人間は本能としては、一部のオスに人気が集中するかもしれないが、ただ、そういう、本能に忠実な群れが「集団として強いのか?」を考えると、おそらく弱い。

ホッブスが言うように、人間は最も弱い者であっても、寝込みを襲うなどすれば、最も強い者を打ち負かすことができる。

よく、「本能に従って一夫多妻制にすればいい」みたいな意見を言う人もいるが、闇討ちなどを加味すれば人間の個体ごとの戦闘力の差なんてほとんど無いようなものなので、本能に任せたなら、群れのボスが頻繁に入れ替わることになる。

もちろんそういう集団は、オスの数が少なくなり、大きな群れを維持できないので、他の集団と戦争したときに勝つことはできなさそうだ。

一方で、「結婚」という社会制度を採用した集団は、個人の本能を抑制しようとする。

本能的に好ましく思う相手と必ずしも番いになるのではなく、社会の圧力によって、自然には選ばなかったような相手と結婚して子供を作ることになる。

これによって、能力の高い者も低い者も、社会の一員として集団に組み込まれ、さらに、結婚をしたあとの不貞を禁止することにより、過剰な競争や衝突が抑制され、社会が安定し、長期的な協力関係が成立しやすくなる。

自然な本能でやっているような集団と、結婚のような「社会制度」により「本能」を抑制してきた集団とで、どちらが強かったか、生き残りやすかったかというと、後者だろう。

「結婚」というのは、それによって幸せになれるからではなく、むしろ「個人の本能的幸福に反するが、集団を強くするから」という理由で、これまで受け継がれてきて、現在も重視されている「社会制度」と言える。

我々サピエンスには、「本能」と「社会制度」とが対立しているという事情があり、「結婚」は「本能」を否定する「社会制度」の側になる。

そしてそれゆえに、個人の自由と幸福(つまり「本能」の側)を重視するようになった現代社会においては、伝統的な価値観が強かった時代と比べて、結婚をしようとしない男女が増えている。


「結婚」は「男女の長期契約」を可能にした

先に述べてきたように、たしかに結婚は「本能」に反するし、それゆえに現代では否定される傾向があるのだが、しかし、「結婚・婚姻」という制度は、一定以上の大きさになったどの文明にも見られるもので、人類が備えてきた社会制度のなかでも、非常に強固なものであるとも言える。

「結婚」は、「長期的な男女の信頼関係・協力関係」を可能する仕組みで、「本能」に反する部分がありながらも、「幸福」にまったく寄与しないというわけでもない。

男女には、生殖上の役割の違いにおける非対称性があり、性的価値の格差が、特に若い時期にはどうしてもある。

女性は本能的に相手を選り好みしたがり、男性は本能的に若い時期の女性を選びたがる傾向がある。

そのような非対称性があるのに対して、「若い時期に夫婦になって生涯をかけて添い遂げる」という形で、「男女の性的価値の差を長期で均す」というのが「結婚」という制度の仕組みと言える。

現代の政治的正しさの論調においては、あるいは「結婚」において女性が被害者という見方がされがちかもしれない。たしかに、若くて性的価値の高い時期に不本意な相手と半ば強制的に番いにならなければならなかったという形で、過去に多くの女性が我慢を強いられてきた。

ただ、結婚という制度においては、男性も被害者だ。

例えば、「責任」という生物の本能としては不自然なものを課されてきたし、婚姻制度の多くは女性保護的で、結婚したあとの男性の自由を禁止するという性質を持っている。

つまり、「結婚」は、「互いに我慢するゆえに成立する男女の長期契約」であり、自然な本能に反する部分がありながらも、双方にとってメリットがないわけではない、というものだった。

そのような、本能を抑制して社会集団を強くしながらも、多くの人にとって納得しやすい仕組みでもあったゆえに、「結婚」は、非常に重要なものとして社会に根付いていて、今もまだ強い影響力を持っている。


「不自由だけど楽(結婚)」か「自由だけど苦しい(恋愛)」か

先にリンクを貼った当noteの過去記事などでは、「結婚」のような「不自由」と「恋愛」のような「自由」とが相反すると見なし、「不自由」を「豊かになるが正しくない」、「自由」を「正しいが豊かにならない」という形で説明してきた。

詳細については過去記事を参考にしてほしいが、ここでは、「不自由だけど楽(豊かになるが正しくない)」という「結婚」と、「自由だけど苦しい(正しいが豊かにならない)」という「恋愛」とが、対立する関係にあると見なして、以降の説明を続けたいと思う。

自由競争が肯定されやすい今の社会においては、「自由に競争するほど、各々が努力して自身の能力を発揮し、社会全体が豊かになっていく」みたいに考えられがちだが、ここではそれを疑問視していて、自由競争はむしろ不毛なものになりやすく、「豊かさ」に逆行すると考えている。

「自由」は、それ自体に「正しさ」という価値があるが、「豊かさ」とは相反する、という見方をしているのだ。

例えば現代は、恋愛においてマッチングアプリのようなツールが普及し、自由に相手を探せるようになって、かつてよりも個人の可能性が広がった。

しかし、それによって最適なマッチングが行われるかというと、一部に人気が集中することで相手を見つけられない人が増え、多くの人がかつてより努力するようになったにもかかわらず、結婚できない人が増えている。

一方で、周囲の圧力などで適齢期が来ればほとんどむりやり結婚しなければならなかったような「不自由」な社会においては、今の基準からすれば「なんでこんなやつが?」というような人でも、たいていは結婚して子供を作っていた。

このように、「不自由」には「不自由だけど楽」という特徴があり、「自由」には「自由だけど苦しい」という特徴がある。

そしてここでは、説明のために単純化して、「結婚」を「不自由」なもの「恋愛」を「自由」なものであると考えることにする。

また、ここで言う「結婚」は、その制度に付随する文化や伝統や慣習や、それをさせようとする世間の圧力や常識なども含めて、「結婚」であると考える。

それに対して、個人の自然な本能や自由な意志を尊重するものが「恋愛」であると考える。

現在は、恋愛結婚という、「恋愛」の結果として「結婚」をするという形が主流で、であるならば、「恋愛(自由)」と「結婚(不自由)」の両方があると思われているかもしれない。

しかし今の社会の、特に若者を取り巻く環境は、見かけ以上に「恋愛(自由)」のほうに偏っている。

というのは、「自由恋愛のゴールとして、結婚という不自由な契約を結ぶのがロマンチック」みたいな考え方がされていて、それは実質的に、「結婚」が「恋愛」のロマンチシズムに吸収されてしまっているような状態だからだ。

つまり、適齢期に周囲の圧力でむりやり相手を決められるような「結婚(不自由)」はほとんど機能しておらず、「理想の相手が見つかるのも素晴らしいけれど、結婚しない人生も素晴らしい」みたいな価値観が主流で、ゆえに現代は「恋愛(自由)」の側がかなり強いと言える。

これは当noteの過去記事などで幾度も言ってきたことだが、「不自由だけど楽(豊かさ)」と「自由だけど苦しい(正しさ)」のうち、どちらのほうが「善い」と主張したいわけではない。

しかしながら、「自由」の側が強まりすぎると社会が持続不可能になってしまうし、さらに今の社会においては、「自由」を強めることが単純に善いことと見なされがち(つまり自由の過剰があまり問題視されていない)というのもあって、ゆえに、過剰な「自由」を問題視する記事などをこれまでも出してきた。

そして今回は、恋愛における「自由化」の問題を論じようとしている。


「伝統(差の強調)」と「近代(差の否定)」

伝統的な社会において重視されてきたのが「不自由だけど楽」な「結婚」で、近代化が進むほど重視されるようになるのが「自由だけど苦しい」という「恋愛」であるとして、「伝統(保守)」は、男女の差を過剰に強調し、「近代(リベラル)」は、男女の差を過剰に否定する傾向がある。

伝統的な価値観は、「男らしさ」や「女らしさ」のような規範に個人をむりやり当てはめようとする性質があり、ゆえに、男女の差が実態よりも過剰に強調されやすくなる。

一方で、近代的な価値観は、「すべての人間は平等」といったコンセプトを掲げ、それは男女の差を否定するように働きやすい。

実態としての男女差(男女の非対称性)は、「伝統」ほど極端に差があるわけではないが、「近代」ほどまったく同じというわけでもない、という感じかもしれない。

何が言いたいかというと、現代における「自由(リベラル)」の行き過ぎは、「極端に男女の差を無いものと考えたがる」という形で表れている、ということだ。

例えば、ロマンチックラブのイデオロギーは、「自由で平等な男女が対等に愛し合うのが美しい」といった感じで、そこには、過剰な男女差の否定が働いている。

また、現代においては、男女の非対称性を指摘すると、リベラルな価値観(ポリコレ)からの批判を受けやすいだろう。

「若い時期の女性は性的価値が高い」みたいなことを言うと、「じゃあ年齢のいった女性には価値がないのか」と怒られたりして、ここで論じているような内容も、ちゃんとした立場の人がパブリックな場で主張するのは難しいことが多い。

ただここでは、現代の過剰に男女差を否定しようとするような風潮も、やはり問題であると考える。

「男女七歳にして席を同じゅうせず」といった、性差を過剰に強調する伝統的なものも良くないが、男女平等を掲げるあまり性差を否定しすぎてしまうのも、それはそれで極端なものであるということだ。


男女は欲望のあり方が違う(モテの非対称性)

自由恋愛のイデオロギーが強い現代において、男女差が極端に無いものと考えられている例として、ここでは、「モテ」について考えてみたいと思う。

「モテる」という概念は、そもそも、男女に同じように適用するのは少しおかしい。

男女には、生殖上の役割の違いから来る非対称性があり、進化的な傾向として、妊娠・出産時にリスクを負う女性は、相手の男性を厳選する傾向がある。一方で、リスクを負わない男性は、多くの女性を好ましく思う(つまりストライクゾーンが広い)傾向がある。

つまり、「個人差ではなく性差」として、女性は基本的に「モテる」し、男性は「モテない」のだ。

「結婚」という長期契約ではなく、短期的な「自由恋愛」においては、女性は選ぶ側(有利な側)であり、男性は選ばれる側(不利な側)になる。

自由恋愛のイデオロギーは、「対等な男女が自然な感情で惹かれ合うことが美しい」みたいなロマンチシズムを称揚して、商業的なフィクションなどの多くもそれに追従しようとするので、「対等な男女の自由恋愛」を真に受けている人たちも少なくないかもしれない。

しかし実際のところ、男女には非対称性があり、そもそも欲望のあり方が違うので、「恋愛」は男女にとって同じものにはならない。

ここで、あえてやや極端な形で男女の非対称性を指摘するなら、自由化が進んだ社会において、女性にとっての「恋愛」にあたるのは、男性にとっての「性風俗」になる。

「性風俗」において、男性が「金」を持っていればもてなされる側になるのと同じように、「恋愛」において、女性は「性的価値」を持っていればもてなされる側になる、ということだ。

このような考え方において、例えば「恋愛経験が豊富な女性」の位置づけは、「風俗に詳しい男性」みたいなもので、同性からは一目置かれたり面白がられたりするかもしれないが、異性からの評価は高くなりにくい、といったものになる。

ここでは、極端な論点を提示して多くの人を怒らせたいというわけではなく、男女には非対称性があるのに、リベラルな価値観においてそれを指摘することは悪とされやすく、無理な男女平等観が行き過ぎることで、逆に男女の相互理解が難しくなっていたり、対立を生む原因になったりしているのではないか、ということを指摘しようとしている。

例えば、メディアやyoutubeやSNSなどで、女性側が、男性に対してモテるためのアドバイス(彼女を作るためのアドバイス)をする、といった内容のものはよく見られるものだが、実は男性は、女性の恋愛アドバイスを聴くとむしろモテなくなってしまう。

普通に考えれば、相手側の意見を取り入れて自身を改善していくというのは、有効な方法のように思える。しかし実際には、女性のアドバイスを聴こうとする男性はモテなくなりやすいのだ。

以降では、「男女の非対称性が過剰に否定されるゆえに深まる男女対立」を論じるために、まず、「なぜ女性の恋愛アドバイスを聴く男性がモテなくなるのか?」を説明していきたい。


彼女を作るためには何をすればいいか?

「なぜ女性の恋愛アドバイスを聴くとモテなくなるか」の説明のために、「男性がモテるためにはどうすればいいか」を考える。

一口に「モテ」と言っても色んな定義があると思うが、ここでは、「彼女ナシ、出会いナシ」といったゼロベースの状態から彼女を作れる能力を「モテ」であるとして、その能力を身につけるためにはどうすればいいか、について説明する。

説明のため、彼女を作るにあたって、「魅力(成功率)」と「アプローチの数(試行回数)」の、両方が重要であると考える。

当然ながら、「成功率」と「試行回数」は、両方とも上げる・増やす努力をしたほうがいいのだが、ただ、優先度で言えば、圧倒的に「試行回数」のほうが重要だ。

「試行回数」のほうが重要な理由として、まず、「彼女を作る」の性質上、「1回成功すれば勝ち」であることが挙げられる。

月間に何十人、何百人の彼女を作る、みたいにコンスタントに成果が求められる性質のものほど「率」が大事になるが、彼女を作るというのは、一回だけでも成功すればいいので、「成功率」はそれほど気にする必要がない。

また、女性にアプローチして断られても、社会的評価が大きく下がったり罰金を支払わなければならない、といったペナルティは基本的にはなく、失敗のマイナスよりも成功のプラスのほうが大きい性質のものなので、「成功率」よりも「試行回数」を意識したほうが、リターンが大きくなりやすい。

また、多くの場合、「試行回数」を増やそうとするほうが労力が少なくて済む。

例えば、「魅力(成功率)」を10%から20%に上げるのと、「アプローチの数(試行回数)」を5回から10回に増やすのとでは、後者のほうが労力が少なくなりやすいという点からも、「試行回数」を増やそうとしたほうが手っ取り早いだろう。

一握りのハイスペック(高い成功率)になる労力と、膨大な量のアプローチ(多い試行回数)をする労力とを比べれば、後者のほうが少なくなりやすい(多くの人が現実的に可能なものになりやすい)、ということだ。

さらに、これが最大の理由だが、「成功率」を上げるための最も効率的な方法が、「試行回数」を増やして成功と失敗の経験を積むことなのだ。

サッカーがうまくなりたいなら、筋トレや座学をする前にまずボールを蹴ってみる必要があるように、「まず女性にアプローチしてみる」という経験を積むことで、自分に何が足りないのかを見つけやすくなる。

世の中の女性が魅力的に感じやすいようなアプローチの仕方というのも、失敗しながら数をこなしたり、少しずつ成功体験を積み重ねることで身につけられるものだ。

「成功率」のほうを意識するのも重要だが、まさにその「成功率」を上げるためにも、実践しながら、「試行回数」を増やしながらやっていくほうが効率が良い、ということになる。

まとめると

  • 1回でも成功すればそれで勝ちという性質がある

  • 失敗のマイナスが小さく成功のプラスが大きい

  • 魅力を上げるよりもアプローチの回数を増やすほうが楽

  • 成功率を上げるためにも試行回数を増やす必要がある

といった理由により、「魅力(成功率)」と「アプローチの数(試行回数)」とで、男性がモテたい(彼女を作りたい)ならば、「試行回数」のほうにフォーカスすべきなのだ。


女性のアドバイスは「アプローチの数(試行回数)」を減らす

男性がモテるためには「アプローチの数(試行回数)」が重要である一方で、女性側から男性側にする恋愛のアドバイスは、「魅力(成功率)」のほうにフォーカスしたものが多い。

これは女性が悪いと言いたいわけではなく、そもそも「モテ」において男女には非対称性があり、利害が一致しない部分があるということだ。

女性側からすれば、「魅力(成功率)」のほうが大事、と思いやすい事情がある。

日々付き合っている中で、「魅力」というのは何度も捉え返されるものと考え、それが基準を下回って関係が破綻することを「失敗」と捉えるなら、「魅力(成功率)」のほうを重視するのも決しておかしくはないだろう。

しかし、男性側からすれば、とりあえず付き合ってひととおり経験すれば、すぐに振られたとしても「成功」みたいなところがあり、そこに性差がある。

もちろん「成功率」が高いこと自体は良いことなので、女性側の視点に価値がないというわけではないのだが、しかし問題は、「女性側のアドバイス」というのが、「試行回数」のほうを減らすように作用してしまうことだ。

男性が女性にアプローチすることは、それが迷惑行為になってしまう可能性を排除することができないものであり、どうしても加害的・暴力的な側面を持つ。

一方で、女性のアドバイスは、「女性はこういうことを良く思わないから配慮してほしい」という内容のものになりやすく、それに誠実に耳を傾けてしまうようなメンタリティが「試行回数」を減らしてしまう。

つまり、「女性の恋愛アドバイス」は、「成功率」が上がるかもしれないが「試行回数」が下がりやすくなる、というふうに作用しやすく、ゆえに、差し引きではマイナスになってしまう。

先に説明してきたように、男性がモテるために必要なのは「試行回数」で、何なら「成功率」を上げるためにも「試行回数」が必要だ。女性のアドバイスを聴いて、たとえ「成功率」が上がったとしても、低下する「試行回数」のマイナスを補えるわけではないのだ。

これが、「恋愛において男性が女性のアドバイスを聴くとむしろモテなくなる」理由になる。


「モラル」に反するふるまいをする男性が「モテる」

ここまでで指摘したかったのは、モテるためには「試行回数」が重要である一方で、それを増やそうとする試みは「モラル」に反するものになりやすい、という構造だ。

男性が女性にアプローチをすることは、基本的には迷惑行為になる。

アプローチが成功した場合は迷惑ではなかったことになるのだが、相手がそれを快く思うのかどうか(同意があるかどうか)は、事後的に決まるものであり、それを行う前段階において、その行為の加害性・暴力性について真剣に考えるほど、アプローチをするのが難しくなってしまう。

逆に言えば、迷惑を意に介さないような人ほど、気軽にアプローチし、試行回数を増やしやすくなる構造があるということだ。

また、話しかけて冷たくあしらわれたり、告白して振られることは、多くの男性にとって心が傷つくことであり、そしてそのダメージは、相手の女性を価値を重く置いているほど大きくなりやすい。

一方で、相手の価値を低く見るほど(どうでもいい相手だと考えるほど)、アプローチに失敗したときのダメージは小さくなり、「試行回数」を重ねやすくなる。

さらに、「浮気をしない(彼女がいるなら他の相手に手を出さない)」というのも、一般的なモラルだと思うが、それも「試行回数」を制限してしまう。

「試行回数」を増やそうとするなら、同時並行で複数の女性にアプローチするのは当たり前であると考えたほうが良く、そういう人にとっては、いわゆる「彼女」というのも「キープ」くらいの位置づけになっていく。

このようにして、「迷惑を顧みない」「女性の価値を高く考えない」「同時並行でたくさんの女性を口説くのは当たり前」といったような、世間一般の女性が理想視する「モテる男性像」に大きく反するような男性が、実はモテる(少なくともゼロベースから彼女を作る能力のある)男性ということになる。


努力して女性を軽視しようとするナンパクラスタ

ネット上には、女性を落とすための方法を共有しようとするナンパクラスタ・ナンパコミュニティのようなものがあり、自分はその内情に詳しいわけではないが、youtubeやブログやSNSなどで情報発信をしている人もいて、それを観測することができる。

そのようなものを見ていると、ナンパクラスタの人たちは、何なら「努力して女性を軽蔑しようとしている」ような印象を受けることがある。

ほとんどの男性は、女性軽視なんてしたくないし女性を尊重したいと思っているわけだが、しかし、先に説明してきたように、女性を大切にしようとすることによって、モテるために必要な「試行回数」を稼げなくなってしまう(つまりモテなくなってしまう)という構造がある。

そのため、ナンパコミュニティなどは、モテようとするため(試行回数を増やそうとするため)に、「女性を大切にしないための理屈」のようなものを用意していることがある。

「女性を大切にしないための理屈」というのは、例えば以下のようなものになる。

  • 女性は、口先では誠実な男が良いと言いながら、自分がそのような男性を選ぶことはなく、女性がよく言う「こういう男はモテない」は、それが元カレの特徴だったりして、男性視点からすれば「いや、そいつはお前と付き合えてる時点で成功しとるやろがい」となる。

  • 言葉ではなく行動を見たときに、女性の多くは、自分の要求を無視してしまえるような強引さを持った男性に惹かれがちで、それは本能的にそういうものなのかもしれないが、自分が発した言葉を誠実に受け取った相手を低く評価するような奴らと真っ当な信頼関係を築くのは不可能で、だったら俺たちは開き直って、テクニカルに女性を落とすノウハウを追求していくし、浮気とか気にせずに同時並行でたくさんの女性にアプローチしてやるぜ!

このような感じの理屈によって、ある種の意図的な努力によって、女性を大切に思わない男になろうとするのだ。

そして、そうやって女性嫌悪のマインドを育てることが、アプローチを断られることに対するダメージの軽減などに繋がり、実際に「試行回数」を稼ぎやすくなるので、モテるための方法として有効に機能する、という形になっている。

もっとも、「誠実な男が良いと言いながら、実際に誠実な男を選ぶことはないじゃないか!」みたいな恨みがましい考え方をするのは、女漁りをする人たちの中では「陰キャタイプ」で、他には、「わりとナチュラルに女性を軽視していて、ホモソーシャルな価値観を強めながら競技のようにガールハントを楽しもうとする」ような「陽キャタイプ」や、「自分が女磨きをして女性にモテる能力を身につけることで、たくさんの女性を幸せにすることができるんだ」みたいな「サイコパスタイプ」などが、(おおまかに大別すると)いるように見える。

ただ、色々と流派の違いなどがあるにしても、「モテるためにはアプローチの数を増やすこと(試行回数)が必要」という点に関しては、おそらく意見は割れないだろう。


なぜ女性はマッチングアプリで極端なモテ方をするのか?

男性がモテるためにはとにかく「試行回数」が大事、と考えると、マッチングアプリのような露骨な自由恋愛の場において、女性であるというだけで極端なモテ方をする理由が説明できる。

マッチングアプリにおいて、女性は、プロフィールの写真をまともに用意しなかったり、年齢が若くなかったりしても、膨大な量のアプローチを受ける。

女性側からすれば、「男女の数は同じくらいのはずなのに、なぜこれほどアプローチが来るのだろう?」と思うかもしれないが、それは、「男性側がほとんど無差別に送っているから」というのが答えだ。

100人の男性がそれぞれ100人の女性にアプローチを送れば、1人の女性側の視点では100人からアプローチされたことになる。

こういった、「誰彼構わずアプローチする」ような男性の行動は、「誰でもいいわけではない」女性側からすれば、理解しがたいかもしれない。

男性は、女性と比べてそもそもストライクゾーンが広いのだが、それに加えて、「まったく魅力を感じない・関わるのが不快」くらいの相手にまでアプローチをする理由がある。

先に説明したように、男性にとっては、「試行回数」を増やして成功と失敗の経験を積むことが「成功率」を上げる方法になるからだ。

つまり、男性からすれば、たとえストライクゾーンから外れる女性であっても、練習相手、経験値要員として、短期的にはアプローチをして関わろうとするのが合理的なのだ。

女性が考えがちな「モテ」のイメージは、「上位層のモテる男性は、上位層のキラキラした美女のもとにやってくる」といったような、自分がスペック的に上位でさえあれば上位の相手から誘いが来る……といった世界観であることが多いが、しかし男性の事情はまったく異なる。

男性はほとんどの場合、アプローチをする役割を求められる側であり、ゆえに実情としては、「モテる男ほどブスにも行く」のだ。

カタログ的なスペックよりも、バイタリティがあるかどうかが男性のモテにおいては非常に重要で、モテる男性ほど色んな人にアプローチをする。

たとえ性的魅力を感じないレベルの女性だったとしても、男性にとってはスキルアップ用の経験値要員としての価値があるので、性別が女性でさえあれば、マッチングアプリに登録するだけで膨大なアプローチが向こうから来る。

そして、マッチングアプリ的なむき出しの自由恋愛が進んでいくと、どんな女性であっても短期的には上位男性と遊んだり付き合ったりできるようになるので、中堅以下の男性は非常に厳しくなっていく。


現代の男性が直面している恋愛・結婚の困難

自由化が進むと、トップ層の男性が短期的にどんな女性とでも付き合うようになることで、他の多くの男性がパートナーを見つけられなくなっていくのだが、単純なスペックやスキルの格差というだけでなく、付き合い方が「短距離走」的になっていくという問題がある。

結婚して最後まで添い遂げるのが「長距離走」で、出会ってから関係を持つまでを全力でやるのが「短距離走」であるとして、自由化が進むほど、「短距離走」的な付き合い方をしようとする人が増える。

そして、「長距離走」のつもりの人と「短距離走」のつもりの人を比べると、短期的なスパンでは「短距離走」のほうが有利になりやすい(魅力的に思われやすい)。

長期的な信頼関係を築いていこうとする「長距離走」ではなく、瞬間的に好意を持ってもらえればいいという「短距離走」的なコミュニケーションのやり方が優位になっていくほど、「長距離走」をやろうとするつもりの男性や、「長距離走」に向いているタイプの男性は、異性を獲得するための競争に勝てなくなってしまう。

もっとも男性側からしても、若い時期に「短距離走」に特化した男性と遊んでいたような女性と「結婚」のような長期契約を結ぶのは、理不尽に感じやすいだろう。

先に説明してきたように、「結婚」は、「若い時期に女性が我慢して、長期的に男性が我慢する」という形の契約であり、ゆえに制度や慣習は女性保護的になっていて、例えば日本では、子供の親権が過度に母親側に行きやすかったりなど、女性が優位な部分は今もまだ残っている。

若い頃から付き合っていたならともかく、性的価値に陰りが見えてきた頃に出会った女性と、いまだに女性保護的な側面が強く残った「結婚」という契約をするのは、多くの男性にとって素直に納得のいくものではない。

そのため、たくさんの女性にアプローチして「試行回数」を重ねるような修行に踏み出すのはまだバイタリティのある層で、「クソゲーだからやめた」といったように、恋愛や結婚から降りようとする男性も大勢いる。

恋愛や結婚において、一般に男性は、わかりやすいゲームをしているように思われているかもしれない。

たしかに、現代の女性が置かれている状況の難しさと比較すれば、男性にはまだ、年収の高さと婚姻率が正比例するなど、何らかの勝負に勝てば展望が開けやすいという側面がある。

しかし、ここまで説明してきたように、男性が直面している異性を獲得するための競争は、相手の女性を尊重して真っ当に努力すればいいとか、誠実さが報われるようなものではなく、むしろ女性軽視を強めたり、モラルに反するふるまいをすることが成功に繋がるといったものだ。

女性を軽視するほど、短期的な関係を獲得するために最適化された行動をしやすくなり、一方で、女性の意見を尊重してしまうようなメンタリティの人は、競争に勝ち抜けず、女性に選ばれなくなりやすい、といったジレンマがある。

自由化が進んで、女性を射止めるために男性が競争すればそれによってみんながより幸せになっていくのかというとそうではなく、女性を尊重しようとしたり「モラル」を大切にしようとするような「長距離走」に向いているタイプの人がパートナーを得られず、「ルール」に最適化して「短距離走」を全力でやろうとする人が女性と付き合いやすい、といったような状況になっていってしまう構造があるのだ。

なお、今回は自由恋愛をテーマにしているが、似たような構造を「市場競争(仕事)」などにも指摘することができて、例えば「働くのがつらい理由とそれを解決する方法」といった記事などでは、「モラル」と「ルール」が相反する、という形で同様の構造を説明している。


女性が置かれている困難

ここまで、男性が難しい状況に追いやられていることを説明してきたが、これはもちろん、女性側にとっての難しさでもある。

男性の多くが「経験値」を目的にアプローチしてくるのなら、せっかく自分が相手に魅力を感じて真面目に付き合おうとしても、糧にされたあとは切り捨てられるリスクが高くなるということだからだ。

恋愛・結婚のみならず、政治や経済なども含めれば、現代女性が直面している矛盾は、男性よりもさらに難しいものがあるだろうと思う。ここでそれを詳しく説明しようとすると主旨から外れるので割愛するが、ひとつ例を出すと、「長距離走」が「短距離走」に勝てなくなるという状況は女性も同じだ。

先に、出会ってから関係を持つまでに特化した「短距離走」的なやり方をする男性が増えることで、「長距離走」に向いているタイプの男性がパートナーを得られなくなる、という話をしてきた。

これについては女性も似たような問題に直面していて、なぜなら、「性の商品化」が進んでいるからだ。

「結婚」が「長期契約」であるとするなら、「性の商品化(性風俗)」は、短期的な性的価値の切り売りになる。

基本的に、伝統的・保守的な価値観は、「性の自由化(自由恋愛)」に加えて、「性の商品化」にも反対してきた。性が短期的な形でやり取りされるようになると、人口の再生産を可能にする長期的な信頼関係が破綻してしまうからだ。

そのような保守的なものが弱まり続けている現在、旧来からあった形の性風俗はもちろん、様々な形で「性の商品化」が進んでいる。

最近は、「立ちんぼ」が増えて収集がつかなくなっていることがニュースになったり、セクシー女優のインフルエンサー化が進んで同性からも憧れの対象になったり、もっとマイルドな形でも、女性と一緒に遊ぶとか会話するみたいなことも市場で売られるようになり、様々な形式・様々な段階において「性の商品化」が進んでいて、かつてよりも競争が激しく起こっている。

また、youtubeなどにおいて、ピアノを弾く内容の動画でもサムネイルを性的にすれば再生数が増えやすくなるみたいに、「女性性」自体が、直接的に使うにしろ間接的に使うにしろ、注目を集めたりビジネスをしたりする上で非常に強い武器になる。

そしてこのような状況は、「長距離走」的な形で付き合おうとする女性の立場を不利にしていく。

男性側の立場からすれば、金を払えば市場から供給されるサービスで良い思いをしやすくなったということであり、その分だけ、昔はよくあったような「配偶者の女性を養う」といったことに理不尽さを感じる男性が増えていく。

実際に現代では、男性側もパートナーに対して「ちゃんと働いていて収入があること」を求める傾向が強くなっているだろう。


「長距離走」が「短距離走」に勝てなくなる

自分が「長距離走」をするつもりでもライバルが「短距離走」をしようとするので勝てなくなってしまう、といった状況は、男女ともに同じだ。

ただそれが、女性の性的価値を目的に男性がもてなそうとする形では「自由恋愛(性の自由化)」、男性の金銭を目的に女性がもてなそうとする形では「性風俗(性の商品化)」、という形で起こる。

先に「女性の恋愛は男性の風俗」と言ってきたのはこのような理由による。

男性が、金さえ払えば上位層の女性と一時的に関わりを持つことができるのと同様に、女性は、恋愛という短期的な関係でさえあれば上位層の男性と一時的に付き合ってもらうことができる。

そして、夜職の女性が内心では相手の男性を軽蔑していることが多いように、自由恋愛の競争に勝ち抜く能力を鍛えてたくさん経験を積んでいるような男性も、内心では女性を軽蔑していることが多い、ということだ。

ただ、このような対応関係があるなかで、現代では、おそらく女性のほうが男性よりも勘違いしている人の割合は多いと考えられる。

男性も、もちろん勘違いをしている人はたくさんいるが、金を支払っていれば、それが金銭を介するから成り立つ関係であることは認識しやすい。

一方で、政治的にも商業的にも「自由恋愛」が持て囃されている現在は、男女の差を無いものとするリベラルな価値観が前提で、ここでしてきたような男女の非対称性を指摘する言説に対しても、「女性差別だ」みたいな批判がされやすい世の中なので、多くの女性が勘違いをしてしまいやすい環境ではあるだろう。

この記事では、女性が男性にする恋愛アドバイスが、それを聴くとむしろモテなくなってしまう性質のものであることを説明してきた。

女性が男性に言う「こうすればもっとモテるよ」というのは、金持ちの男性が夜職の女性に言う「こうすればもっと指名が取れるよ」みたいなもので、その情報に価値がないとまでは言わずとも、相手側が抱えている事情を踏まえられていないアドバイスであり、たとえ善意であれそれを臆面もなく語ってしまうこと自体がわりと恥ずかしい種類のものでもある。

金を出しているから話を聞いてもらえているだけの人が、人間関係の何たるかを語るのが恥ずかしいことなのと同様に、男女の非対称性においてモテる側にいるだけの人が、恋愛の何たるかを語るのは恥ずかしいことなのだが、そういう構造を理解できていない人は女性側のほうに多いだろうとは思う。

もっともこれに関しては、男性が「短距離走」的に女性に好かれようとするやり方が、「うんうん、そうだね、◯◯ちゃんは何も悪くないよね」といったように、ある種スポイルするような形で女性の意見を肯定するものになりやすい、という事情もある。

「性の自由化」にしても「性の商品化」にしても、かつての「不自由」だった社会に対して「自由」が認められるようになったという点においては望ましいことなのだが、男女双方にとって「自由だけど苦しい」状況をもたらすものだ。

「自由化」の行き着く先は、「競争に勝てない男と性的魅力を失った女は消えろ」という世界であり、そしてそのような中で、各々がよりモテる男性やより商品価値の高い女性を目指して頑張っても、まさにそのための努力が、地獄のような状況をますます深めていく、という地獄になっている。

このように考えると、自由が抑圧されていた「不自由だけど楽」な社会のほうが、不毛な競争にリソースを割かずに社会のためになる仕事に取り組めたり、結婚して子供を産み育てるようなことが可能だった、と考えることもできる。

しかしながら、「自由」は、決して蔑ろにしていいものではなく、また、ここまで自由化が進んだ社会において、自由を否定する方向に強く舵を切ろうとするのも現実的ではない。

「ではどうすればいいのか?」について、以降で説明していく。


男女の信頼関係の合理的な再構築

ここから、男女関係における自由化の問題に対処する方法のようなものを語るつもりなのだがが、ここからの話は、当noteの過去記事や、「べーシックインカムちゃんねる」の内容や、「べーシックインカムを実現する方法」というサイトで提示している枠組みを使うことをご了承いただきたい。

ここでは説明しないが、「べーシックインカムを実現する方法」では、「正しさ」の過剰(「豊かさ」の欠如)という問題に対して、単に伝統に回帰しようとするのではなく、合理的な形で信頼関係を再構築していこうと考える。(「べーシックインカムを実現する方法」のサイトの枠組みでは、「闘争」ではなく「反競争」を意図する。)

「伝統的な信頼関係」が、「閉鎖的・抑圧的」な環境だからこそ成り立っていたものであるのに対して、「合理的に再構築しようとする信頼関係」は、「自由化・情報」化が進みきったという前提の上で、近代的個人にとっても納得しやすいものであることを目指す。

そして、そのような「信頼関係の再構築」を、「正しさ」に反するものだが、それでも「豊かさ」が必要という価値判断によって行う、と位置づける。

当然ながら、個人の自由や権利などの「正しさ」が重要なものであるというのは大前提だ。

さらに言うと、伝統を否定しようとするわけでもなく、伝統的なものと再構築したものを足し合わせることで、十分な「豊かさ」の総量を確保できればいい、という考え方をしている。

ようするに、男女の信頼関係を再構築していこうとするにしても、「結婚」のような「伝統」や、「恋愛」のような「自由」を、強く否定しようとはしない、ということだ。

他にも、細かいニュアンスや注釈は色々とあるのだが、繰り返し言うが、「べーシックインカムを実現する方法」などのサイトの内容を踏まえた上での話であることに留意してほしい。


「1対1」を諦める

この記事では、「若い時期の男女を1対1の夫婦にする」という形の「不自由」によって、「男女の性的価値の差を長期で均す」仕組みが、「結婚」という伝統的な信頼関係であるとしてきた。

それに対して、「性の自由化」「性の商品化」が進むことによって、伝統的な信頼関係が破綻していることを説明した。

そしてこれから、「伝統に回帰する」というやり方ではなく、自由化を前提とした上で、「信頼関係を合理的に再構築していく」方法を考える。

それがどのようなものになるのか、結論から言うと、旧来的な結婚が重視してきた「1対1」という部分を諦めた上で、「男女の性的価値の差を長期で均す」という部分を再構築していこうとする。

なぜ「1対1」の部分を諦めるのか?

この記事の最初のほうで、現代は「恋愛(自由)」と「結婚(不自由)」の両方があるけれど、「自由恋愛のゴールとして、結婚という不自由な契約を結ぶのがロマンチック」という形で、実質的に「恋愛」が「結婚」を吸収していて、見かけ以上に「恋愛」が強い社会であることについて言及した。

過去記事などで説明したことなので詳細は省くが、実は「自由(正しさ)」は、集団を維持する負担を増やしていくことによって実質的に集団を解体していく作用であり、しかしそれは、表面的には伝統的な集団を重視しているように見える。

例えば、ブライダル産業は、「結婚」という伝統的なものを強く重視しているように見えるが、その実態は、「一生に一度のイベントだから!」という形で特別感や取り返しのつかなさを煽り、高額の結婚式費用を出させようとする業種だ。そしてそれは実質的に、結婚のハードルを引き上げることによって、むしろ伝統的な「結婚」を破壊しようとする作用になる。

ブライダル業界は、「特別な結婚式をすることで幸せな夫婦関係が続く」みたいなイメージを提示しようとするが、本音のところでは、結婚式のあとはすぐにでも離婚して、また別の人間と式を挙げてほしいと考えている。

このようなビジネスは、実質的には伝統を解体していく作用なのだが、しかし表面的には、伝統的なものを重視しているように見える。

これは他の冠婚葬祭業や、「旧帝国大学」を理想視する受験産業などにも同じことが言えて、市場というのは、伝統的な権威を利用して金を稼ごうとして、それは実質的には伝統を解体していく作用である一方、表面的には伝統を重視しているように見える、ということだ。

同じように、「恋愛(自由)」は、「結婚(不自由)」のような伝統的な信頼関係を解体していく作用なのだが、一方で、「恋愛」には「そのゴールとしての結婚」を理想視している側面もある。

このように、解体する作用が、解体する対象を表面的には重視しているように見えて、それゆえに、自由化が進んだ社会において「伝統」を復権することは難しい。

「重視する」という形で実質的に解体していく作用が働いていることで、単純にそれを重視しようとすることができなくなっているからだ。

くだけた言い方をすると、「伝統」は「市場」にメタられている。

そして、恋愛・結婚のような男女関係に関して、「伝統」も、それをメタることで利益を出そうとする「市場」も、どちらも「1対1」という部分を重視する。

「伝統」が「1対1」という形で競争を否定してきたのに対して、市場は「1対1」を強調して競争を煽ろうとするのだ。

このような理由により、これから男女の信頼関係を再構築していこうとする上で、「1対1」という部分を諦めようとすることに可能性があるのではないか、という発想になる。


「1対1」を諦めた上で、「男女の性的価値の差を長期で均す」

ここで考える「信頼関係の再構築」は、恋愛・結婚における「1対1」の部分を諦めた上で、なおかつ「男女の性的価値の差を長期で均す(若い時期の女性が選り好みするのをやめて、男性が長期的にそれを埋め合わせる)」ような規範や常識を再構築していこうとする、というものになる。

このような考え方をした場合にどうなるのかというと、まず、女性に彼氏がたくさんいることは美徳とされる。

今の社会において、例えば「彼氏が5人いる」みたいなことを言うとドン引きされるだろうが、対して、「信頼関係が再構築」された社会においては、彼氏がたくさんいる女性は、「本能的にはもっと選り好みしたいかもしれないのに、たくさんの人と付き合ってあげていて偉い!」となる。

つまり、女性の持つ許容度の高さは、非難されたり軽蔑されるものではなく、むしろ肯定され、感謝されるものであるという考えを、社会規範や社会常識として強めていこうとする。

一方で、男性が持つべき規範は、若い時期に付き合ってくれた女性に感謝して、将来的に恩返しをしていこうとする、というものになる。

社会的に成功したり、多くの収入を得られるようになったあとは、過去に付き合っていた女性たちに何らかの援助をしたり成果のお裾分けをしようとするような男性が、カッコよく尊敬できる男であると考えて、そういう男性の甲斐性を社会的に評価していこうとする規範を強めていく、といったような感じだ。

結婚のように「1対1」ではなく、厳密な契約を結ぶわけではないが、規範や常識や慣習として、過去にある程度の期間付き合ってくれた女性に対して、その長さなどに応じて、自分に余裕のある範囲で支援をする、という形の男のモラルを構築していこうとする。

つまり、ここで考える、再構築された「イイ女像」「イイ男像」というのは、

  • 自分が許容できる範囲において色んな男性と付き合ってあげようとする女性

  • 過去に付き合ってくれた女性に対しても甲斐性を発揮しようとする男性

といったようなものになる。

これらの男女像は、相対的なルックスの良さやステータスの高さを競い、マクロでは社会全体が衰退していることを横目に、核家族のような狭い範囲で「ちゃんとやっている」ことを良しとするような、現代のリベラルな感覚に持て囃される「イイ女」や「イイ男」とはだいぶ異なるだろう。

もっとも、ここで言う「信頼関係の再構築」は、「自由(リベラル)」な社会を前提とするので、「伝統的な信頼関係」のような強い強制力を機能させるのではなく、あくまで「推奨する」という形になる。

例えば、伝統的な「結婚」において女性は、世間の圧力などによって半ば強制的に選り好みを否定されてきたが、「再構築された規範」においては、自由が尊重された上で、自分が許容できる範囲において色んな人と付き合ったりすることが「推奨される」。

「なぜ気の進まない相手と付き合わないといけないんだ」と思うかもしれないが、強制されるわけではないし、そもそも伝統的な社会においては、かなり嫌な相手とでもほぼむりやり夫婦にさせられてきたわけで、それと比べれば、「無理なお願い」というわけではないだろう。

男性も、「結婚」のように強制的に収入や財産の半分を持っていかれる契約ではなく、あくまで規範として、過去に付きってくれた女性に支援しようとすることが「推奨される」形になる。

「なぜ契約も結んでいないのに支援しないといけないんだ」と思うかもしれないが、これも強制ではないし、旧来の社会において広い範囲に甲斐性を発揮してきた男性は数多くいたわけで、これも「無理なお願い」というわけではないだろう。

各々の合理的なメリットを考えても、許容度の高い女性は、ひとりの男性に全ベットする必要がなくなり、「過去に付き合っていた男の誰かが成功すれば得をする」といった、分散投資のようなことができるようになる。

男性側は、「もし自分が成功したら元カノにも成果を分配したい」みたいなモラルを持っているならば、それによって下駄を履かせてもらえる形で、女性と付き合える可能性が高くなる。


緩やかな「多対多」という「別の新しい選択肢」

「伝統的な信頼関係」が、強い強制力による「1対1」だったのに対して、「信頼関係の再構築」は、緩やかな「多対多」という形で、「男女の性的価値の差を長期で均す」ような連帯を社会的に構築していこうとする。

「複数人と付き合うのが当たり前」と言うと、「けしからん!」と思われるかもしれないが、すでに現状の社会において「性の自由化」や「性の商品化」が進んでいて、みんなが色んな人と付き合ったり別れたりしている以上、行われていることの実態がそれほど劇的に変化するわけではない、とも考えられる。

現状の社会では、男女のやり取り(性の自由化や商品化など)が「感情(本能)」や「貨幣」を介して行われているのに対して、「規範」を介して行われる部分を再構築していくことによって、社会の「豊かさ(強さ)」を取り戻していこうとする、ということだ。

「感情」や「貨幣」は、「正しい」し、「自由」を尊重するものなのだが、気持ちの切れ目・金の切れ目が縁の切れ目であり、それによって、男女双方にとって苦しい社会になっていく。

競争が過剰な今の社会では、一部の勝ち組を除いて、「自分の価値を勘違いした愚かな女性」と「競争に勝てなかった男性」が大量発生していて、愚かさを修正できないまま高齢になった女性が、社会に対して筋の通らない恨み言を言ったり、なぜか弱者男性が目の敵にされたりして、それに対して競争に負けた男性は、自分たちとは違って一時的にではあれ優遇された時期のある女性たちに愚かさの精算を迫る……といった、男女対立の呪術廻戦が展開され、かつては機能していた男女の信頼関係が急速に切り崩されていっている。

それに対して、もし、新しい形で男女の信頼関係が再構築されていったなら、性が自由であるという実態がそれほど大きくは変わらないまま、単に幻想が再構築されるだけで、「自分の価値を勘違いした愚かな女性」と「競争に勝てなかった男性」の組み合わせが、「多くの人に愛され感謝される女性」と「感謝と誇りを持って社会に貢献しようとする男性」の組み合わせになる可能性がある。

そのような信頼関係の再構築を目指すことが、これからの社会に「豊かさ」を戻しうる方法なのではないか、ということだ。

もっとも、自由を否定するわけではないので、一部のモテる男性が多くの女性と付き合うのは変わらないし、ひとりも相手を見つけられない男性がいなくなるわけでもないだろう。ただ、「1対1」ではなくなることで過剰な競争が起こりにくくなると、「短距離走」的な方法が主流になって長期的な関係を築けない、といった状況が緩和されやすくなる。

「男女平等な自由恋愛だから貸し借りなし(自由化)」という考え方や、「短期契約としての金銭を介したやり取り(商品化)」といったものを否定するわけではなく、ただ、「自由」を前提とした上で、「別の新しい選択肢」として、「(多対多で)男女の長期契約が成り立つ形」を探っていくことができるのではないか、ということだ。

なお、ここ言う「信頼関係の再構築」は、実は、「伝統的な信頼関係」である「結婚」を否定しようとするわけではない。この部分の詳しい理屈まではここでは説明しないが、「多対多」の信頼関係が機能する社会のほうが、「結婚」という「1対1」のハードルも下がりやすくなると考える。

当然だが、子供を作れば、母親と父親という「1対1」は否応なしに意識される。

ただ、先に同じ構造について言及したが、「親」の責任を強めようとするのは、一見して「親」というものを重視しているように見えて、実はそのハードルを上げることで「親」になれる人たちを減らしていく作用になる。

それに対して、「親」という枠組みが過剰に意識されることがなく、楽に「親」をやれるような向きを強めたほうが、逆説的に、伝統的な「家族」も成り立ちやすくなる。

そもそも、「性の自由化と商品化」が過剰な今の社会のように、男女が対立して憎しみが深まっていく世相においては、育児支援というのも社会的に肯定されにくい。

少子化というのは多様な論点のある問題ではあるだろうが、男女の信頼関係を再構築していくことは、急激な少子化を防ぎうる有効な方法のひとつだと考えている。

もっとも、「信頼関係の再構築」が、単に望ましいものと言うつもりはもちろんなく、「正しさ」に反するものであると位置づけている。

何らかの規範を強めようとすることは、「べーシックインカムを実現する方法」などの枠組みでは、自然な本能に反する歪なものであり、まずその点において「正しさ」に反する。

また、過去の人間関係が重視されやすくなることは、それ自体に「ローカル」な性質があるので、「グローバル」な政治的正しさが重視する「自由」に逆行することにもなる。

このように、「信頼関係の再構築」というのは、手放しで褒められるようなものではなく、むしろ「正しさ」に反するものなのだが、ただ、過去記事などで何度も述べてきたように、何かしらの形で「豊かさ」を強めなければ社会が持続不可能という価値判断により、その現実的な方法を検討する必要があると考えている。


社会はそんなにすぐには変わらない

以上までが、この記事における、男女関係における「自由(正しさ)」の過剰への対処法なのだが、ここまで言っておいてなんだが、自分はこれをあまり大きな声で主張するつもりはない。

理由はいくつかあるが、例えば、男女の「1対1」の部分を否定するような主張は、「伝統」と、それを利用して金を儲けようとする「市場」の両方を敵に回すことになり、実際に、今の社会の市井の人たちの大半にとって、「気持ちの悪いもの・許しがたいもの」に映るだろう。

また、これが最大の理由だが、「社会はそんなにすぐには変わらない」ことを考える必要がある。

政治経済に関しては、長期的なスパンで考えていくことが必要だと思うが、恋愛結婚に関しては、若いうちにやったほうが有利という側面がどうしてもあり、現時点でこの動画を見ている人たちの大多数も、子供がほしいならば、色んな矛盾を感じながらも、伝統的な枠組みにおける「結婚」という選択肢を採らざるをえないだろう。

新しい男女関係のあり方を大々的に提唱して、それを真に受けた人が不利になってしまうというのは、自分としても望んでいることではないので、あまりこの話を積極的に言うつもりはない。

自分は、「結婚という伝統的な信頼関係」であれ、「自由恋愛におけるロマンチシズム」であれ、どちらも蓋を開けてみれば、無条件に信奉するようなものでもなく、分解したり再構築していける余地のあるものだと考えているし、他のnote記事やyoutube動画などでは、同じような視点で市場競争やメリトクラシーや政治的正しさなどを疑っているのだが、しかし、恋愛や結婚にまで踏み込んでいくのはさすがに戦線を広げすぎという感じがあるので、基本的には政治経済の話をメインにやっていくつもりではある。

なお、今回は、自由恋愛によって起こる地獄を言語化してきた形になるが、ここで言ってきたのは、物理のテストの「ただし摩擦はないものとする」といったような「自由恋愛が極端に進んだ状態」を仮定したものになる。現実の男女の出会いには様々なところに「ローカル」な余地があるので、純粋な自由恋愛など存在しない。

そのため、例えば、「女性の恋愛は男性の風俗」というのも、現実にはありえないほど自由化が進んだ状態を仮定した場合の話ではあるので、あまり真に受けないでほしい。


まとめ(「恋愛(自由)」と「結婚(不自由)」)

  • ここでは、「恋愛」を「自由」、「結婚」を「不自由」と位置づけ、両者に相反する性質があると考える。

  • 「結婚」という伝統的な社会制度には、「個人の本能的幸福に反するが、集団を強くするゆえに尊重されてきた」という事情があり、ゆえに、個人の自由と権利を重視する(「恋愛」を重視する)近代的な社会においては否定されやすくなっている。

  • 「結婚」は、「自由」を否定する「不自由」な制度ではあるが、個人の本能的な幸福にまったく寄与しないわけではなく、「男女の性的価値の差を長期で均す契約(男女の長期的な信頼関係)」を可能にしてきた。

  • 「恋愛結婚」が前提の現代は、「恋愛」と「結婚」の両方があるように思えるが、「自由恋愛のゴールとして、結婚という不自由な契約を結ぶのがロマンチック」という形で、実質的に「恋愛」が「結婚」を吸収していて、かなり「恋愛」の側が強くなっている。

  • 「結婚(不自由)」を重視する「伝統的な価値観(保守)」が、男女の非対称性を過剰に強調してきたのに対して、「恋愛(自由)」を重視する「近代的な価値観(リベラル)」は、男女の非対称性を過剰に否定する。

  • 現代における「リベラル」の行き過ぎは、過剰な男女平等観(極端に男女の非対称性を認めない)という形で表れていて、それが逆に、男女の相互理解・信頼関係の構築を難しくしている。


まとめ(「女性の恋愛」=「男性の風俗」)

  • 男女には、個人差ではなく性差として非対称性があり、自由恋愛という短期的なスパンにおいて、女性は基本的に「モテる」し、男性は「モテない」側になる。

  • 自由化が進んだ社会において、女性にとっての「恋愛」にあたるのは、男性にとっての「性風俗」になる。男性が「金」を持っていればもてなされる側になるのと同じように、女性が「性的価値」を持っていればもてなされる側になるのが「自由恋愛」である。

  • 非対称性が否定されるゆえに男女の対立が深まる例として、「女性の恋愛アドバイスを聴く男性がモテなくなる」という現象が挙げられる。

  • 男性がモテるためには「アプローチの数(試行回数)」が重要だが、女性のアドバイスは、最も重要な「試行回数」を減らしてしまうように作用しやすく、ゆえに、女性の主張に真摯に耳を傾けるような男性ほどモテなくなってしまう。

  • 逆に、「試行回数」を増やせるのは、「迷惑を顧みない」「女性の価値を高く考えない」「同時並行でたくさんの女性を口説くのは当たり前」といった、世間一般の「モラル」に反するようなふるまいをする男性になる。

  • 女性を大切にしようとする「モラル」が「試行回数」を増やそうとする上で足枷になるので、一部のモテようとする男性たちは、異性を獲得するための「ルール」に最適化する方法として、努力して女性を軽蔑しようとする。

  • 男性がモテるためには「試行回数」が重要であるゆえに、マッチングアプリのような露骨な自由恋愛の場においては、どんな女性でも膨大な量のアプローチを受けることになる。

  • 男性は、練習相手・経験値要員として、ストライクゾーンから外れた女性とでも関わるメリットある。それゆえに、自由恋愛においては、ほとんどの女性が上位層の男性と一時的には付き合った経験を持つことになり、中堅以下の男性は魅力的に思われにくくなっていく。

  • 自由化が進むと、上位と中堅以下の格差ができるのみならず、「ルール」に最適化したやり方(「短距離走」)をせざるをえなくなっていくという問題がある。

  • 結婚を「長距離走」、出会ってから関係を持つまでを全力でやるのが「短距離走」であるとして、短期的な魅力の競い合いでは「短距離走」に最適化した男性が勝ちやすくなり、「長期契約」をしようとする男性が不利になっていく。

  • 現代の恋愛・結婚において、男性は、「モラル(長距離走)」を大切にしようとする人がパートナーを得にくくなり、一方で、「ルール(短距離走)」に最適化するほど女性嫌悪が深まってしまいやすい、というジレンマに直面している。

  • 「長距離走」をしようとすると「短距離走」に勝てなくなるという構造は、女性も男性と同様に直面しており、女性の場合はそれが「性の商品化(短期的な性的価値の切り売り)」という形で起こる。

  • 女性の性的価値を目的に男性がもてなそうとする形では「自由恋愛(性の自由化)」、男性の金銭を目的に女性がもてなそうとする形では「性風俗(性の商品化)」という形で、「短距離走」が優位になり、「結婚」のような「長距離走(男女の性的価値の差を長期で均す)」が破綻しやすくなっている。


まとめ(男女の信頼関係の再構築)

  • 「伝統的な男女の信頼関係(結婚)」が、「性の自由化・商品化」によって破綻していると考えた上で、これから目指す「男女の信頼関係の再構築」は、「閉鎖的・抑圧的」だったから成り立っていた伝統に回帰するのではなく、「自由化・情報化」を前提とした上で、近代的個人にも納得できる合理的な再構築であることを試みる。

  • 「伝統(結婚)」も「市場(恋愛)」も、男女の「1対1」という部分を重視している。「伝統」は「1対1」という形で競争を否定し、「市場」は「1対1」を利用して競争を煽る。ゆえに、「信頼関係の再構築」において、「1対1」を諦めることに可能性があると考える。

  • ここで考える「信頼関係の再構築」は、「1対1」を諦めた上で、「男女の性的価値の差を長期で均す(若い時期の女性が選り好みするのをやめて、男性が長期的にそれを埋め合わせる)」ような規範や常識を再構築していこうとする。

  • 再構築された規範においては、女性は、自分が許容できる範囲において付き合う相手を増やすことが美徳とされ、男性は、過去に付き合ったことのある女性も含めた広い範囲にリターンを返そうとする甲斐性を持つことが美徳とされる。

  • 「自由」であることは前提であり、「強制する」のではなく「推奨する」。「伝統」が強制力のある「1対1」だったのに対して、「再構築された信頼関係」は、緩やかな「多対多」という形で、男女の非対称性を長期で均そうとする。

  • 「性の自由化・性の商品化」を否定するわけではないが、現状では「感情(本能)」や「貨幣」によって男女の関わりが行われているのに対して、規範や信頼関係において行われる部分を再構築していくことによって、競争の過剰(「短距離走」が最適になる状況)を緩和していくことを試みる。

  • 「信頼関係の再構築」は、旧来的な「結婚」を否定するわけではない。現状のような「性の自由化・商品化」によって男女の対立が深まっていく時勢においては、育児支援などに対する社会的合意も難しくなっている。新しく信頼関係を再構築していくことができれば、むしろ「伝統的な結婚・伝統的な家族」も成り立ちやすくなると考える。


今回は以上になります。

youtubeもやっているので、よければ動画のほうも見てみてください。



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