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愛おしい物語

母が、「特別に面白い物語というわけではないけど、読み終わっちゃうのがもったいない感じ」と、最近読んでいる本についてそう話してくれました。

もうあと数ページで終わっちゃうんだけどもったいなくて、毎晩寝る前に少しずつ読んでいる、のだそう。なんてことない話なのだけど、ほのぼのするというかほっこりするというか…なんていうんだろう、もったいなく思っちゃうんだよね、読み終わっちゃうのが。と母が話していて、そう思う本に出会うことってそうそうないだろうからいいねえと答えつつ、私にもそう思う一冊の本があることを思い返していました。私がその本に、物語に抱く気持ちは「愛おしい」という気持ち。ささやかでさりげないけれど、かけがえのないもの。母が「ほのぼのするというかほっこりするというか」と言っていたのも、きっと同じく愛おしく感じていることなのだろうなと思うのです。

ここ最近あまり本を読んでいなかったのですが、母とこの話をしてから久しぶりに私も「読み終わるのがもったいなく思ってしまう本」を読みたくなり、大事にしまってある本棚から取り出してきました。大学生の時に初めて読み、それから何度も何度も繰り返し読み続けている小説。

小川糸さんの「喋々喃々」。
私の愛おしい物語の一冊です。


セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ。真っ白い粥に細かく刻んだそれらを放つと、そこだけ春になった。(小川糸「蝶々喃々」より)

一ページ目、最初の文章。何度読んでも、この一行目からふわっと心が吸い込まれ、何の抵抗もなく小説の中に入り込んでしまう。アンティークきもの店を営む栞さんが紡ぐ日々、人々と交わすものとおいしいものの光景が、丁寧にやさしく切なく描かれているこの本が、何年経っても、何度目の読書でも、愛おしくてたまらなくなってしまうのです。

お正月の、静々と冷え込んだ空気の中に漂う七草粥の湯気から始まって、ひたひたに想いが満ちている師走の夜に喋々喃々と語り合う静けさでふっと終わっていく。密やかなままのこともぽつぽつと散りばめられ、すべてがはっきりと明かされていくのではなく、栞さんだけの記憶はそのまま栞さんだけのもののままに描かれているのもとても好きで。愛おしい、本当に愛おしい一冊です。

当時、大学の友人からバイト先の人、家族にも、あらゆる人におすすめをして読んでもらった本でした。文庫本としてはそれなりに分厚い一冊なのに、皆貸してからすぐに読み終わっていたので(全員が全員、読書家と言うわけではなかったのに)それだけ読みやすい本であることもなかなか珍しいのかなと思います。

ちょうど今、まさに物語の始まりと同じお正月なので、久しぶりに栞さんに会いに読み直してみようと思います。その前にあずきを買ってきて、あずきオレを作ろうかな。今は無き千駄木倶楽部に、栞さんと春一郎さんを感じたくて、あずきオレを飲みに行ったのもよい思い出です。愛おしい物語からもらった、愛おしい記憶のひとつ。それは私自身の、愛おしい物語の一編です。


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