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デザインばかりの世の中に少し辟易してきた、という話

いつの頃からか違和感を抱いているのだけれど、デザインがオシャレすぎるサービスとか、場づくりがありますよね。正直、苦手です。そういう告知を見ると、ああまたか、と少し残念な気持ちになります。

たとえばカタカナ4文字ベンチャーの会社が山手線内で企画するような、イケてる感じの集まりです。テーマはリモートワークとか地域コミュニティとか多様な働き方とか二拠点居住とか様々ですが、試しに参加してみたことは何度かあります。実際の場づくりは広報媒体のスマートでオシャレな印象とはかけ離れた、参加者置いてきぼりの雑な進行だったりします。ただただ2時間半、誰かの自慢(と聞き取れる)お話を聞いたり、段取り悪く待ち時間が長かったり、主催側の内輪ノリのようなテイストで盛り上がりを演出しているイベントが少なくない印象です。

事後の開催レポートもオシャレにイケてる感じの記事に仕上がってくるので、行かなかった人にとっては輝き続けています。イメージ戦略的には上手くいっているのかもしれません。でも、経験を重ねてよーく見ていると、画面上の告知やメルマガの文面から、それが本物の場なのかニセモノの場なのか、おおよその推測はつくようになりました。

また以前に、大手広告代理店のコピーライターかプランナーの方からあるプロジェクトの提案を受ける立場にあったことがありました。幾分もったいつけた後に出てきた企画書には、余白たっぷりの白い紙の真ん中あたりに、10文字くらいで「これがコピーだ!」と言わんばかりの、ユニークで耳障りの良いテキストがありました。それはイケてるのだから批判は本質に当たらない、という空気を全身から発散していたなぁ、と記憶しています。(もちろん、ホチキス止めはしないで、サラサラと紙芝居をめくるスタイルでした)

いま、なにかと「デザイン」がもてはやされています。でも本当に、オシャレであることが良いのでしょうか? 見た目の良さが物事の本質を覆い隠してしまい、俗物をよく見せるツールとしてデザインの力が使われているように感じます。

ロゴ、コピー、フライヤー、バナー、リーフレット、webサイト、SNS、ありとあらゆるものが、オシャレにデザインされてきています。過去のどんな時よりも私たちが「よく見せること、見られること」に重きを置いているように思います。

さまざまな技術により、以前よりも簡単にデザイン性の高いプロダクトが誰でもが作りうる環境になったことも大きいと思います。「伝わりやすくする」ことには大賛成なのですが、相手目線でない、出し手目線のこだわりはどこか鬱陶しく感じる瞬間があります。既にオシャレなデザインが街中に溢れかえっているので、綺麗にデザインされていること自体では差別化できていないですし、またデザインデザインしていること自体がイケてないように思うことすらあります。

素のまま、ありのまま、そのまま。そういう素朴さや素材感すらデザインになっています。もはや、何を言いたいのかわからなくなってきました。(この文書で意味が伝わる人、いるのでしょうか? わたしだけなのだろうか??)

整理しますと、

・デザイン≠よく見せる

・デザイン=よく伝わる

でないといけないんですよね、本来。お寺の五色の垂れ幕とか、神社の鳥居の形とか、メチャメチャかっこいいと思います。古来から人々に教えと悟りを与え、意味を気づかせてくれる為の、まさに伝わるデザインです。

*ある日の京都六角堂、五色の垂れ幕

そんな課題を自分ごととしても持ちながら、5年後10年後にも飽きられていないモノや場づくりを、自分の手の届く範囲で創り続けていきたいと思っています。

#スキルノート
#ファシリテーション
#伝わる講座のつくり方

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