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私は-あなたと-食べた/小説

 私は家に着くと妻に向かって、
「人肉を食べてきたんだ」と言った。
 妻は肩を撫でながら、そう、と薄く微笑んだ。


 バスと電車を乗り継いで八時間。駅を出た広場で男が私を待っていた。
「お待ちしておりました」
 背筋の伸びた上半身が折りたたまれ、やがて頭が上がった。宍倉(ししくら)だと男は名乗った。執事のような恰好をしているが、周囲に浮かないような小綺麗で現代的な小物をつけている。ちょっと綺麗すぎる顔も伏目がちなためか、驚くほどじゃない。
「お疲れでしょう。どうぞ、こちらへ」
 宍倉が車を手で示した。私は黙って頷いて、車へと歩いていく宍倉についていく。本当は、大いに緊張していた。手のひらを見ると、汗が溜まっていた。
 車に乗りこむ直前で宍倉が、私に目隠しをした。
「ご無礼であることは承知していますが」すまなそうな声で宍倉が説明をする。「私たちのレストランはあらゆる点で違法です。クライアントの皆様を疑うわけではありませんが、この目隠しは私どもレストランとクライアントの皆様、双方を守るものであるとご理解をいただきたい」
「ええ、わかっています」
 私はおとなしく従う。そうだ。法に触れることなんて、わかっている。わかっていて、ここにいるのだ。
 車のドアが開く音がして、私の肩を宍倉が掴んで、座席に誘導してくれる。座席は柔らかかった。無臭だ。視覚が塞がれて、ほかの器官から入る情報が一気に増えた感覚になる。ほとんど無音なのに煩いくらいだった。後部座席のドアが閉められる音が、銃声のようなインパクトに感じられた。
 運転席のドアが開く音がして、閉じる音がした。すぐに車が出発した。
 車は明確に左折と右折を繰り返しつづけた。その間、車は一度も止まらなかった。信号にも引っかからなかった、という意味だ。体感で二時間ほど車は走り続けて、ようやく停まった。走行中、何度か前に座って運転しているであろう宍倉に質問をしようかと思ったが、結局しなかった。聞きたいことが無数にあったからこそ、何も出てこなかったというのもあるが、それ以上にその類の好奇心が危険だと思ったからだ。知らない方が問題にならないだろうと考えた。
「申し訳ありませんが、ここから少し歩いていただきます」
 宍倉がそう説明する。
「レストランに着いたんじゃないんですか」
「ええ、ここからさらに電車に乗っていただきます」
「電車ですか?」
 私は驚いて声を上げた。だが、宍倉は何の説明もしなかった。私は宍倉の肩に片手をかけて歩いた。途中で、階段がありますと宍倉が言った。地下鉄なのだと、それでわかった。電車はすでに来ていたようで、待つことなく私は乗りこんだ。
 また、一時間ほど何もしない時間があった。電車が止まって、私は降りた。
「お待たせ致しました」
 宍倉がそう言って、目隠しをほどくと、木製の扉が目の前にあった。振り返ると地下鉄の線路があった。店と直結しているのだ。
 扉の上の看板に『TATA』とある。店名だろう。宍倉が私の目を見ながら、扉を開けて、中に入るように促す。
「いらっしゃいませ、『TATA』へようこそ」
 入ると、一本の黒い廊下があった。通常のレストランのようには見えない。むしろ、カタコンベのようだと思った。照明が少なく、足元しか照らしてくれないから、そう思ったのかもしれない。足音を出さずに宍倉が私の前を歩く。まるきり冥界巡りの水先案内人だ。
 足を止めた宍倉が右側の壁を軽く押しこむと、開いた。人が同時に二人通れるほどの長方形――つまり扉だ。私が驚いているのを感じたのか、
「隙間のない壁に見えますが、実は取っ手のないドアなんですよ」
 どうぞ、と宍倉が言って、私を中へと促す。
 中はさらに寒々しかった。
 一つのテーブル。一つの椅子。それだけ。全面が光沢のない黒で塗られている。光を吸収することが目的みたいだった。天井で心細そうに灯る光も冷たい色をしている。とてもレストランだとは思えなかった。
「お掛けになり、お待ちください。すぐにワインとカタログをお持ちいたします」
 宍倉はそう言うと下がっていった。扉が静かに閉まる。そこで気がついた。個室側にも、廊下側と同じように扉に取っ手がなかった。こちらは引き戸だから、ちょうど閉じこめられた形になる。
 慌てて扉に駆けようとしたが、無駄なことだと思い、結局は椅子に座った。それに、ここまでの行程は飯島の言っていた通りの流れでもあった。
 私はリラックスしようと試みた。そう、美味しい食事を楽しむように。背筋を伸ばして、浅く息を吐く。


 人肉を供するレストランがある、という話を私は飯島から聞いた。夜からの同窓会のまえにカフェででも会おうと飯島が言ってきたのだ。飯島は高校時代からの友人だった。私が抱える問題も知っていた。高校の同級生の現状や過去の思い出で軽く笑いあった後で、飯島が急に声のトーンを落として、件の話をしてきた。
「人肉を出すレストランがある」
 飯島はフードジャーナリストだった。そこで掴んだネタだと私に説明した。
「デマだろう」
 私は即座に断じた。人肉レストランは、殺しを請け負うとかそういった類のダークウェブ上の都市伝説だと思ったからだ。だが飯島はあるんだ、と譲らなかった。
「どこから人肉なんてものを調達するんだ。現代日本において、人が一人消えるなんてのは、なかなか難しい話だぞ」
「いや、誰かを殺して解体するって話じゃないんだ」
「どういうことだ?」
「人体の一部を提供してもらうんだ」
「そんな奇矯なやつがいるか」私はそう言った。
「いる」
 飯島はしきりに唇を舌で濡らした。ちらりと辺りを見る。
「なぜ、そう言い切れる」
 私がそう訊くと、飯島は椅子から立ち上がって私の耳元に口を寄せた。
「俺も食べたからさ」
 そう言って椅子に座りなおすと、履いているジーンズの右足側をめくって私に見せた。義足だった。飯島はあっけにとられた私を見て、
「提供もした」
 飯島は私にも行くと良いと言った。
「お前はその、勃たないんだろう?」飯島は私にそう言った。
「別に不能なわけじゃない」
「わかってる。ただ――」飯島は少し言い難そうにした。「多香子さんとの話」
 飯島の言いたいことがわかった。私と多香子は夫婦だ。結婚して十三年になる。セックスレスになって四年経つ。
 お互いの身体に機能不全があるわけではない。ただ、できなかった。多香子は子供を望んでいた。結婚する前にそんな話をした。将来の展望という話。私がそれを嫌がった。自分では態度には出さなかったと思っていたが、多香子は私の感情を敏感に感じ取ったのだ。結婚して二年を境に、だんだんと数が減っていって、四年まえからは一度もしていない。
 多香子とは大学のスキーサークルで出会った。学部がまるきり違ったから接点はサークルだけだった。それがかえって良かったのだろう。会うとよく話した。そういった関係から付き合いだすまでは早かった。順調だった。
 やはり結婚してからが問題だった。夜の関係の破綻は日中にも影響する。お互いに言い合いをするのは得意ではないから、表立った喧嘩はほとんどなかったが、冷め切ってしまっているのは間違いなかった。多香子は、軋轢の原因が私だと思っているだろう。私も、そう思っている。
「医者に通ってるんだろ」飯島が言った。
 私は頷く。
「だが、大した効果はないな。このままいけば弁護士事務所に通うことになりそうだ」
「治療の一環だと思えば良い」
「何が」
「その、レストランだ」
 どういうことか、わからなかった。
「夫婦で人肉を食べてこいってことか?」
「違う違う」飯島が慌てて首を横に振る。「そうじゃなくて、そのレストランは、面談みたいなことをするんだ。食べるまえにな。手順がある。それがいまのお前には良い方向に働くかもしれない、ってこと。とにかく、行ってみると良い。違法だが」
 そう言うと、飯島はテーブルの上に住所が書かれた紙を置いた。
「誰にも言わずに一人で行け。そもそもこのレストランはお一人様専用だ」


 背後の扉が開いて、宍倉がワゴンとともに入ってきた。テーブルの上にワイングラスを静かに置いて、ワゴンに積まれたワインの栓を抜いて、注ぐ。ワインボトルにはパッケージがなかった。
「カタログをお持ちしました」
 宍倉がそう言って私のまえに一冊の本を置いた。しっかりと装丁された本だ。表紙に散りばめられて輝いているのは金粉だろうか。タイトルはない。
「ゆっくりとお読みになりながら、お待ちください。ただいま、調理の最中でございます」
 私は宍倉の目を見て頷いた。面談で、レストラン内での流れは説明されていたから、驚きはどこにもない。この後、私はワインを飲みながら、手元の本を読んで、料理が運ばれてくるのを待つ。料理が運ばれてきて、それを食べる。帰る。それだけ。面接で私が何を話したか、それはほとんど憶えていない。飯島の言葉からカウンセリングのようなものを想像していたが、実際は聞き取り調査のようなものだと感じた。どこで当レストランを知りましたか、とか、なぜ当レストランを訪れようと思ったのですか、とか、そんなことを聞かれたような気がする。レストランでの食事の料金も、まとめてそこで払った。三か月分の月給が消えた。
 宍倉は部屋から出て行った。あの取っ手のない扉をどうやって開けたのか、扉は椅子に座っている背後に位置していたから見えなかった。振り返れば見ることができただろうが、それはしなかった。なぜだろうか。
 私は本を開いた。
 そこには一人の人間の、膨大な記録だった。
〈その人が生まれたとき、母親の胎内から勢いよく飛び出して、危うく床に落ちるところだった。そばにいた看護師が咄嗟に手を伸ばして抱きかかえて事なきを得た。看護師の白い服が真っ赤に染まった〉
〈その人は小学校のころに転校を体験した。引っ越しをしたから。以前の学校を離れることに抵抗はなかった。ないことが不思議だった。友達もいたのに、それでも転校は楽しみだった〉
〈怪我の絶えない小学校時代。自転車で車道を走っていたとき、歩道へあがろうとしたときに段差をうまく越えられなくて、盛大に転んだ。右腕と右足が血塗れになった。半身を引き摺りながら家に帰った〉
 私はワインを一口飲む。口の中で浸透していった。身体中の血液がすべて、いま口に含んだワインに置き換わるような感覚だ。本の中で、その人は中学生になっていた。バスケットボール部に入った。運動が得意だったらしい。
〈バスケットボール部では高校時代も入れて六年間、レギュラーであり続けた。スピードを上げて、急に止まる。それで相手はついてこれなかった。そのプレイが抜群に上手かった〉
〈中学三年になって、初めて男と付き合った。初デートで映画を観て、野球を観に行った〉
 ワインを私はゆっくりと飲んだ。もともと、アルコールは強くない。頭がぼうっとして、人と話すのが難しくなるから、外では滅多に飲まない。だからこそ、家でアルコールをとるのは嫌いじゃなかった。
「あなたとお酒飲むと、何も話してくれないから、つまらないのよ」
 多香子が私にそう言ったことが、急に思い出された。私にもその自覚はあった。だからこそ、外では飲まないのじゃないか。家で飲ませてくれてもいいじゃないか。そう思った。
 だが、それも多香子のことを軽んじていることになるのだろう。
〈中高一貫校を選んでいたから、高校進学は特別なものには感じなかった。少し退屈だと思った。同じ場所に通うのは三年で十分じゃないかと考えた。だが、環境を大きく変えることは苦手だ。友達もいる。高校は安心できる環境だった〉
「どうして、そんなにすたすた歩いちゃうの。待ってよ」
 私はグラスの中のワインを飲み干した。やはり頭がぼうっとしている。頭の中の、言葉を繋げる部分が麻痺している気がした。言葉が、纏まらない。テーブルに宍倉が置いた空のグラスと水の入ったデキャンタが注ぎ入れて一気に呷った。冷たく、歯にしみた。
〈寒さに歯を鳴らした。大学受験の当日は、雪が降っていた。幸運にも交通機関は通常通り運行していた。緊張して足が意思に関係なく動く機械みたいに感じた〉
「散髪屋さんで髪を洗ってもらうときに、顔に白い布がかけられるじゃない。私はあれが好き。自分が死体になったときのことを夢想するの」
 私は、手ぶらで歩くとき、自分の腕が腐り落ちるような感覚を憶える。振る腕が自重と降られる遠心力で落ちていく。そんなことを夢想する。
〈大学入学の日は人に埋もれながら、何とか大学に辿り着いた〉
 そこまで読んで、私は本を閉じた。扉が開いたからだ。
 料理が運ばれてきた。


「お待たせいたしました」
 サルシッチャを開いて焼いたような肉の塊が、シンプルなひし形の白い器に載せられて、私のまえに座った。匂いが上り、私の鼻が過敏に反応する。とても、美味しそうな匂いだ。肉そのものの匂いとソースの匂いが折り重なり山のようになっている。味の強い、粘度のあるソースだ。ここで供されるのは一皿だけ。だからこそ、満足感の高い味になっているのだろう。目を瞑ると舌がじわりと音を立てて、肉が自分の上に運ばれてくることを待ち構えているのがわかる。
 少し気になって、宍倉に尋ねた。
「この肉は、どの部位のものですか?」
 その質問に、宍倉は少しだけ目を開いてみせた。それからにっこりと笑って、腕の肉ですよ、と言った。
「上腕ですか」
「ええ、そうです」
「右腕ですか? それとも、左腕?」
「右腕でございます」
 間が開いた。そのあいだも、美食の匂いが喧しいほどに主張する。宍倉はグラスにワインを注いで、一礼をする。そして懐から鈴を出して、テーブルの隅に音が鳴らないように置いた。
「本日はその一皿でおしまいでございます。満足のいかれるまで楽しまれましたら、こちらの鈴を鳴らしください。すぐにお帰りの準備をいたします」
 私は頷いた。宍倉は黙って下がった。
 音を鳴らさないようにナイフとフォークを手に取る。とても冷たかった。手のひらに温度が伝播していき、私の骨を凍らせるほどに、冷たかった。部屋の気温も下がっているかもしれない。それくらいの演出を、このレストランはするのに労力を惜しまないだろう。
 皿の上の肉に、ナイフとフォークが置かれる。柔らかく揺れた。弾力がある。美しく育てられた牛肉のようだ。だが違うことを知っている。これは人肉だ。私は肉の温度がナイフとフォークを伝って私の手のひらを温めてくれるのを楽しむ。
〈その人は大学で新しいことに挑戦してみようと思った。高校生ではやりづらく、大学生でならやりやすいことを探した〉
 正面の壁に文字が映された。さきほどまで私が読んでいた本の続きだろう。私は一口大に肉を切った。中までしっかりと焼き切られた肉だ。しっとりとした断面を目で楽しむ。とても美しい断面だ。無数の断層がそこにはある。
「美味しそうに食べるよね」
 多香子の声だ。出会ったばかりのころ、ゲレンデのイートインスペースで私がサンドイッチを食べていたときに言われた言葉だった。私はなんと返したのだったか。憶えていないが、そのとき私が考えていたことは憶えている。多香子こそ、何を食べるのにも楽しそうに味わう人なのだ。
「君こそ」
 私はそう言いたかったはずだ。
 肉を口に運んだ。口の中でとろけることのない、存在感のある肉だ。
「わたしはここにいるよ」
 多香子と同棲をし始めたとき、彼女はよく私の視界から隠れて私を不安にさせた。だが、しばらくすると、ここにいるよ、と笑いながら出てくるのだ。いなくならないよ、そう言う。
 口の中の肉を噛みしめると旨味があふれた。濃い味だ。味の情報量に飲まれそうになる。身体が火照っていくのがわかる。
 自然と頬が緩む。
 私だけの一皿だ。
 目が見開かれ、涙がこぼれる。
〈結局、その人が選んだのはスキーサークルだった。そこでその人はいずれ結婚する人と出会った〉
〈緊張すると、心配そうに眉が下がる癖がある男だ。その人はその表情が好きだった。お互いまったく違う価値観を持っていて、だからこそ良かった〉
 多香子の右腕。
 自転車で転倒して大きく傷ついた右腕。
 相手をきりきり舞いにさせ続け、リングにボールを運び続けた右腕。
 一緒に歩くときに、私の左腕と繋いだ右腕。
 私を弄った右腕。
 三十七年間、多香子とともにあり続けた右腕。
 私が食べる、右腕。
〈結婚してからしばらくして、何かがずれ始めた。鈍化した〉
 皿の上の肉は骨がついていた。そこに張りついた肉がナイフでうまく切れない。私は少しだけ躊躇して、それからナイフとフォークを置いた。
「あなたの手、大きくない? そういうものなの?」
〈その人は自分が変わってしまったのかもしれないと恐怖を感じた〉
 肉を手にもって、齧りついた。レストランでするべきではない行為だ。だが、だからこそするべきなのだ。味わい尽くすために。
〈喧嘩は苦手だった。それがまずいのだろうと思った。言い争うくらいのことをするべきだったのだ。その人はそう思った。でも、何もかも手遅れだとも思った〉
 テーブルに身を覆いかぶせるように食べていたから、ワイングラスを手に取ろうとしたときに失敗して、ワインが零れた。私は肉を食べ続ける。
 もう、生涯ない、食事だろう。そう思った。完璧な食事だった。


 鈴を鳴らしたらすぐに宍倉が来て、私はまた目隠しをされてなすがままに電車と車を経て、駅のまえで宍倉と別れた。彼は最後に深く礼をした。私も何度も礼を言って別れた。
 早朝だった。始発の電車が来て乗りこんだ。また八時間かけて家に帰った。日曜日の真昼だったから家には多香子がいた。右腕のない多香子が。
 それからしばらくは、何もなかった。とても穏やかな日々だった。相変わらず多香子との交渉はなかったが、それでも以前とは決定的に違っていた。二人のあいだの溝は、完璧ではなくとも埋まりつつあった。多香子は周囲に、交通事故で腕を失くしたのだと説明したらしかった。私の両親から、
「多香子さんはこれからずいぶん不自由するだろうから、あなたがくれぐれも気をつけて、困っていたら手伝うようになさい」
 と連絡があった。私は一言だけのメールを送った。何も言えないし、言う必要もなかった。
 あのレストランで食事をしてから一か月ほど経った土曜日に、多香子は友人と旅行に行ってくると言った。私にはそれが嘘であることがわかった。本当はどこへ行くのかもわかり、だから私は快く見送った。
 多香子が家を出てから一時間ほど経ったあと、玄関のチャイムが鳴った。開けると、宍倉だった。相変わらず執事のような装いだった。そろそろ初夏だから、これから先の季節はどうするのだろうと思った。
「お久しぶりですね」
 宍倉が微笑みながら言う。私は家の中に入るように促した。来客用に出しておいたスリッパを手で示すと、宍倉が礼を言いながら履いた。紅茶を出してから、ダイニングの椅子に私と宍倉はそれぞれ座る。テーブルを挟んで向き合った。
 宍倉は、私の右腕を受け取りに来たのだ。レストランで提供するために。食べるのは、多香子だ。
「本来、お一人様限定のレストランという形式は、不完全なものです。夫婦がお互いの肉を同時に食べること、より詰めて言ってしまえば、お互いが自身の肉を対象に食べさせる、という形が理想なのです」
 宍倉は紅茶を口に含んで、それを飲みこんでからそう言った。私は頷く。宍倉は続けた。
「ですが、それ以上に独りでパートナーに肉を食べることが重要である――これが『TATA』の基本理念です。誰の目にも触れない場所で、貪るように食べること、それによって欠落を埋めること。それが重要なのです」
 それで話は終わりだった。私の右腕は血抜きを済ませた状態でクーラーボックスで運ばれていった。解体は宍倉が持参したビニル製の簡易テントの中で行われた。局所麻酔で、私には意識があった。宍倉は義手業者の案内をしてくれた。
「飯島さまもそちらに義足を依頼したという話です」
 飯島もまた、私たちと同様に夫婦間の問題を抱えていたのだ。彼は私に、そしておそらく誰にも相談せずに『TATA』に頼ったのだろう。
「世間に公になったら、あなたたちは捕まるんだろう」
 私は宍倉の方を見ずに、そう言った。言ってから、余計なことを言ったなと思った。気を悪くしたかもしれないと心配になった。だが、宍倉は気にする様子を見せなかった。ただ、私どもの活動が違法なのは当然のことでございましょう、と言った。


 宍倉が帰っていって、私は家でこうして一人になる。
 やることがなかったから映画を二本観て、少し眠った。起きると日が暮れていた。宍倉が帰ってから七時間ほど経っていた。そろそろだろうか。
 そろそろ、多香子は調理された私の腕を食べているだろうか。私のこれまでの人生を言葉にしたものと一緒に口に運んでいるだろうか。
 私は深く息を吸う。一か月まえの記憶から、多香子の肉を味わったときの瞬間をなんとか取り出そうとするためだ。唾液が出てきて、鮮明に蘇った。
 私は記憶のなかで再度、多香子を食べる。
 多香子はいま、私を食べている。
                              

                               〈了〉

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