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風越という体験 風越という学び

Google for Education認定トレーナー&コーチの笠原です。

このnoteでもつぶやいているように今週の火曜日に学校向けの団体視察研修で軽井沢風越学園へ行ってきました。

今回は自分の振り返りとして少し感想をまとめみようと思います。

もちろん、情報管理の約束があるので当日の研修の内容や学校の内部の様子などは詳細には書きません。あくまで自分が体感したことと、それによって自分の中にある感情とモヤモヤを問いという形で外部に持ち出してみる試みです。

静かなで賑やかな学校

立地条件や設備面での影響も大きいとは思いますが、風越学園は非常に静かな学校だということが一番、印象に残っています。それでいて子どもたちの賑やかな声が穏やかに響いていることに心地よさを感じます。

学校という場は静かで良いのだと感じます。自分が日常の学校という職場でどれだけ騒がしく過ごしているのかということを考えさせられます。

どうして学校の内部が騒がしくなるのか。そして、聞こえてくると音が鋭くてキツくなるのか。

そういうことを考えると、根本的には「何かを統制したい」という学校のあり方が見え隠れしているのかもしれないと思うのです。

なぜ、教員が大きな声を出して子どもたちに話をするのかと考えれば、子どもたちに話を聞かせるべきという前提があるからでしょうし、一斉に子どもたち全体に指示を通そうとするから声が大きくならざる得ないのでしょう。そうして不特定多数に対して投げかけられる言葉だからこそ、あてもなく響いて、音がうるさく感じるのかもしれないのです。

一人一人に伝えようとする言葉は大きく、鋭くある必要がありません。丁寧に相手の表情を見ながら表現を選べば良いのです。そうでない伝え方をするから無理矢理、気を引くような表現が選ばれてしまう。

たった少しの音の聞こえ方から振り返っても、自分たちの学校が何を大切にして何をおざなりにしているのかを考えさせられます。騒がしい学校にはなかなか落ち着きと安心は生まれにくいように思います。

大人の声ばかりが聞こえてくる学校と生徒の自然な声が聞こえてくる学校。自分の勤務校の生徒を振り返ると、どうしても生徒の声もとげとげしい。大きな音に負けないような声の出し方になっているように感じるのです。

普通の学校として

風越学園を実際に体験して思うのは、良い意味で普通の学校なのだということです。そして、それはなかなかどこを探しても見つからない「普通の学校」なのだということも感じるのです。

風越学園のメールマガジンの「かぜのーと」を読めばどのような学校を目指していて、どのように教育に貢献していこうとしているのか、地域との関係はどうなのか、そういうことはよく分かります。

ただ、実際に体験してみて感じるのが、想像以上に「普通の」学校なのだということです。

今年は職務の関係で全国の色々な学校へ足を運んで様子を見学させていただいています。どの学校もそれぞれの理念と思いを持って、力のある教員が集まって強烈な熱量を持って教育に取り組んでいました。

新しい教育の形をつくるためには、ものすごい技量と熱量が必要になるのは当然です。そうしたパワーが結集されてやっと見えるものもあります。

そういうエネルギーの凄さに何度も圧倒されてきました。

しかし、それに対して風越学園の様子は、同じようにこれまでの価値とは違う教育に挑戦する営みであるし、力のある教員集団の集まりでもあり強い情熱を持っていることも間違いのですが、圧倒されるような雰囲気ではないのです。

それはもっている力が弱いということはありません。

うまく言語化しきれないところですが、やっぱり「普通の」学校であるということなんだろうと思います。よいと思うことを当たり前に取り組んでいく。じゃあ、その「よい」ということはどういうことなのだろう?ということを当たり前に問い返しながら進んでいく。

そういう一歩一歩の確かさがある意味でよく見える、感じられるのかもしれません。ある意味で先進校は「どうしてこういうところに届くんだ…?!」というような絶壁のような凄みがある場合が多いのですが、同じような高みにあっても風越学園はあゆみが見える気がします。

それはそのプロセスが「かぜのーと」のような形で発信されていることも大きいのでしょう。しかし、実際にその場に行ってみるとさらにそのあゆみが見える、感じられるような気がします。

出口を考えること

一緒に見学に行った同じ職場の教員から「こういう学園を卒業して、その出口はどうなっているのでしょうね」という質問がありました。

確かに風越学園は普通の学校ではあるけど、現状ではほぼ唯一無二であり、その特色を持つ高校はないと言ってもいいかもしれないですね。

中学校三年生になったら風越学園を巣立っていかなければいけないのですから、ここで自分らしく生きた子どもたちの出口がどうなるかということは、もちろん、気になることでしょう。

ただ、そんな大人の一方的な心配は子どもたちには失礼な気もしています。

たとえば、かぜのーとの卒業式の記事などを見ると、大人が出口を勝手に気にすることに違和感が湧いてきます。

「どういうふうに学んで育ってほしいか」という願いと「出口でこう進んでほしい」というエゴは気をつけないとかなり近いところにあるように感じます。

自分が今の職場で、子どもたちの進路を考える時に「こうあってほしい」という思いは「こういう進路に進むべきだ」という大人のエゴになっていないか、不安です。

風越での体験を終えて、自分がずっと反復して考えているのが、まさに出口のことなのです。

子どもたちに教えることは、出口の先まで導くことではない。

たった数年しか関わることの出来ない子どもたちに対して、その先に何十年と続く将来のことまで自分が口出しして、影響を与える、コントロールできると思っているのではないか。そんなことを反省して自問自答しているところです。

一人一人の将来を願うことと将来を思い通りのレールに導こうとするのは似ているようで遠い。それでいてすぐに混線する。

あるがままであることを願い、あるがままでよいという思いを持てるかどうか。それでいてただの放任や近視眼にならないように……。

教えるということは難しく、いつでも自分自身が何かをつくることを地味に繰り返すことなのかもしれませんね。

今の気持ちとして

今、一番思うこととしては、今後も自分の持ち場で、どのように新しい子どもたちを迎え入れ、どのように送り出すのかということです。

今まで、雑に数年を過ごしてきたのだなぁという思いがします。

もっと丁寧に。もっとシンプルに。

そういう関わりの中でもっと教えるということにやれることがあるのではないかという気がします。

決して、今教えている内容を教えることを諦めることではないと思っています。子ども中心にしたからカリキュラムが終わらないだとか、そういう貧しいことは考えたくもないですね。

自分の持ち場で丁寧に。

自分への連絡は


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