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長編作品の執筆の裏話(2)

マガジンとして公開している『青年期の知的迷路から脱出する方法』を執筆した裏話である。今回は、なぜ『青年期の知的迷路から脱出する方法』という長編作品をインターネット上で公開することにしたのかということに触れよう。

話は単純である。私は元々、『青年期の知的迷路から脱出する方法』を紙の本で出版したかったのであるが、どの出版社に企画や原稿を持ち込んでも、興味をもたれなかったのである。何社に持ち込んだのか具体的な数は言わないが、相当数にのぼる。回答がないこともあれば、回答があったとしても定型句と思われるものが多かった。出版社に認めてもらうことは、大変な困難を伴うことを私は認識した。

『青年期の知的迷路から脱出する方法』は、分野でいえば「自己啓発」の部類に入ると思われる。この分野はいわゆる “レッドオーシャン” であり、著者の著名性や本業での高い功績を看板にして読者を惹きつけるのが定石となっている世界であると私は認識している。実際、出版社からの回答にはそのようなものもあった。私は過去に10万部のヒットを記録した本が二作あるのであるが、それでは不十分、または、『青年期の知的迷路から脱出する方法』の内容は本業の迷路とは分野が違いすぎているということなのであろう。

また、一部の回答にあったことであるが、出版社としては、今回の私がしたような、企画の持ち込み自体を受け付けていない。それは出版社としての方針であるので仕方がないことである。そういう方針があることを私は理解する。

ところで、持ち込みの過程において私が憂慮していたのは、そうした出版社個別の方針のことではなかった。もっと根源的な、構造的なことである。私が憂慮していたのは、以下のようなことであった。

本を出版するということは、対象読者を想定し、その「不特定多数、または、特定多数」の読者に受け入れられるかどうかが問われるものである。多くに受け入れられればヒットとなるが、どのようなものがヒットするのかは出版してみなければ分からない。ここで「不特定多数」とは、例えば私の本業である「迷路」のように、年齢や性別を問わない幅広い読者層を指している。そして「特定多数」とは、『青年期の知的迷路から脱出する方法』が読者層を「青年」に絞っているように、対象を限定している状況を指している。数についてはいずれも「多数」であることは明らかである。他方、「不特定少数」や「特定少数」については考慮しない。なぜなら、数が「少数」では商売として旨味が少ないので、特別な事情がない限りそれらを対象とする誘因がないからである。

上では「『不特定多数、または、特定多数の読者』に受け入れられるかどうかが問われるものである」と述べた。ここで、出版社を通じて本を出版するときには、著者としては不都合な状況が発生する。著者としては、出版後のヒットを夢見るのであるが、その前段階としては、出版社の社員に認められる必要がある。つまり、ヒットするか否かの審判を世間の読者から受ける前に、著者として本の出版に漕ぎつけるためには、出版社の社員という「特定少数」の人の眼鏡に適う必要があるということである。出版社の「特定少数」の社員は、本を届けるべき世間の「不特定多数、または、特定多数」の読者層を代表した者といえるのだろうか? いえないのではないか? この疑念は拭うことができないものであり、出版社の社員による選別を経る必要があるというこの状況は、著者にとっては「壁」となる。特に、実績の乏しい著者や全くの新人には越えがたい「壁」であろう。私はこれを構造的問題と捉えており、著者の憂慮の一つだと考えているのである。

……さて、いずれの出版社からも良い回答が得られなかった私は、紙の本で出版するという願望は叶わないと悟った。これは本当に残念なことであったが、同時に、紙の本で遺したいという願望は叶わないものの、今の時代、本という形にこだわりさえしなければ別の選択肢がある、というふうに目線を変えた。インターネットを利用して自分で公開するのである。

私は『青年期の知的迷路から脱出する方法』を自分の手で公開しようと決心した。「自分の手で」といっても、何もかも自分で用意するのではなく、インターネット上に存在する何らかのプラットフォームを利用しようと思った。そこで私が目をつけたのがnoteだったというわけだ。

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