「現成公案」メモ⑫
「身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。」
身心に満ち足りるまでいまだ法を参究しきっていないときには、法がすでに足りていると思ってしまう。法がもし身心に充足すれば、まだまだ十分ではないと思うものである。
「たとへば、船にのりて山なき海中にいでゝ四方をみるに、たゞまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。」
たとえば、船に乗って山のない海に出て、四方を見るが、ただ丸いように見えるだけで、それ以外のすがたに見えることはない。そうではあるが、この大海は丸いわけではないし、四角いわけではない。それ以外の海の功徳は尽くされるはずがないのである。
仏性の海
この「大海」はただの海のことではない。「海」は生死を、「船」は生死を渡る仏法を指すが、道元禅師のいう生死は「生死即涅槃」の生死であり、〈仏のいのち〉そのものである。
「仏性海といひ、毘盧蔵海といふ、たゞこれ万有なり。」(「海印三昧」巻)
万有(森羅万象)は仏性の海であり、毘盧遮那仏の海である。海の徳とは仏の功徳のことをいう。だから、その功徳は尽くされることはない。
「宮殿のごとし、瓔珞のごとし。たゞわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。」
魚にとって海は宮殿のようであるし、天人にとっては宝石のようである。ただ自分の眼の及ぶところで、しばらく丸く見えただけである。
一水四見
「宮殿のごとし、瓔珞のごとし。」とは、唯識の「一水四見」の譬えである。人間が「水」として見ているものは、魚にとっては宮殿(住むところ)であるし、天人にとってはきらめく宝石のようであるし、地獄の餓鬼にとっては膿のかたまりのように見える。つまり衆生の心のありように従って万法はそのすがたを変える。ユクスキュルの「環世界」と同じで、自己の外側に客観世界など存在せず、自己の心のありようを映すかたちで世界はある。一人一宇宙である。
「かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。」
かのように、万法もまたそうである。世間と出世間、ともに多様なありようを帯びているといっても、参学の眼力が及ぶかぎりを見て取り、理解するのである。
「万法の家風をきかんには、方円とみゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。」
万法の「家風」を聞こうとするのならば、四角や丸と見えるほかに、残りの海の徳(=仏の功徳)、山の徳(=自己の功徳)は多く極まりなく、四方の世界(自己の世界)があることを知るべきである。自分の周囲だけが是くの如くあるのではない。自己の直下(=脚下)も一滴の水(=初心)もそうであると知るべきである。
仏家の風
ここでいう「家風」とは「仏家の風」のことである。「仏家の風」は最後の節でも出てくるが仏性のことをいう。「仏家の風」を聞くというのは仏の説法を聴聞することだが、それは仏様のお話を聞くということではなく、自己の真相(=仏性)を知るということである。自己の真相(=仏性)は万法によって証される。だから「万法の家風をきく」という(万法が法を説いていることを禅では「無情説法」という)。
つまり、自己の真相を学ぶにあたっては、四角や丸などの凝り固まったものの見方(自己や世界とはこういうものだという固定観念)を捨てなければならない。そして、つねに初心に帰り、自己の脚下を点検し、参学しなければならないということだろう。
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