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「アダム」について

 なんとなく聖書の「アダム」について書いてみたくなったので書いてみます。(ですが、正しい神学的知識などロクにない人間が書くものなので、どうかそこのところは大目に見ていただけましたら幸いです)


アダムの「罪」とは

 聖書によると、神「ヤハウェ」が土からみずからに似せて形づくり、みずからの息(プネウマ)を吹き込んで生まれたのが最初の人、アダムです。そして神は「人が独りでいるのはよくない」と、アダムの肋骨からイヴをつくりました。
 自分自身から生まれたイヴはアダムにとって汝であり、それはもう一人の自分です。それはイヴにとっても同じです(我が汝で、汝が我です)。だからお互いが裸であることを恥じなかったと聖書にはあります。自他の分離がないため、そもそも何も隠すものがないからです。
 ですが、善悪の実を食べたことで、お互いが裸であることを恥じるようになりました。それは自我意識の目覚めであり、アダムとイヴはお互いがお互いにとって我(自己)に対する分離した他者(=対象者)になったということだと思います。マルティン・ブーバーの言葉を借りるならば、最初の純粋な「我と汝」の関係から「我とそれ」の関係に堕ちてしまったということでしょう。そうなると楽園(ワンネスの世界)にはいられなくなります。分離の意識を持ってしまったからです。それが人間の”罪”というものの始まりです。

アダム=自我の原型

 「アダム」は最初の人間でありながら、自我の原型でもあります。デカルトの「我思う」であり、カントの「超越論的枠組み」である、つまりは四次元時空の世界を実在と思い誤る認識の原型です。その認識によって空間(=分離)および時間(=生死)が実体であるかのような世界が生まれました。仏教的に言うならば「アダム」の罪とは「無明」であり、人が生老病死(輪廻)を繰り返す原因です。
 したがって、この世に生きる誰もが「アダム」であると言えます。

 アダム的な世界認識では、「私」は分離された身体の中に閉じ込められています。その身体は世界の中にポツンと孤立して存在しています。そして身体の周りにはどこまでも広がる空間があり、その空間の中には自分の身体と同じように分離された個物(モノ、生き物)がさまざまな形で存在しています。それらは「私」にとって好ましいものであったり、そうでなかったりします。ですが、それらはすべて(好ましいものも、そうでないものも)、「私」の身体と同じく、時間の中で消滅していきます。そしてまた時間の中で生まれてきますが、また消滅していきます。その繰り返しです。身も蓋もないですが、この世界はそういう世界(無常の世界)です。しかし、それでは当然やりきれないので、アダムの子孫であるわれわれは、民族的に、宗教的に、国家的に、社会的に、個人的に、さまざまなドラマやストーリーを演じることでその事実を隠しながら生きています(ちなみにその事実を隠さず、この世は一切が苦であると言い切ったのがお釈迦さんですね)。

来るべき方の雛型

 パウロはアダムについてこう言っています。

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。
 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。このアダムは来るべき方の雛型です。」(『新約聖書』「ローマの使徒への手紙」より 聖書協会共同訳)

 一人の人(アダム)によってこの世に罪が入り、それはすべての人に及びました。しかし、その罪を最初につくった人(アダム)は、来るべき方の雛型だといいます。
 「来るべき方」とはもちろんキリストのことです。

「そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。(中略)こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。」(同上)

 ここでパウロは、なかなかすごいことを言っています。誰もが逆らうことのできなかった死という原理が支配する無常のこの世界が、キリストの義により永遠の命へ至る道へと変わってしまったというのです。しかも最初の人(アダム)は最後の人(キリスト)の雛型であったというから驚きです。ということは最初から罪には、それを取り消す救いがセットされていたということになります。これはアダムとキリストは表裏一体である、つまり、一体でありながら、それぞれの世界は互いにひっくり返っているということを意味します。

逆さまの世界

 アダム的認識による世界は先ほど書いたように、時間と空間に規定された生老病死する無常の世界です。それに対し、キリストの認識する世界は、アダム的認識の世界とはちょうど逆さまにひっくり返った世界だということになります。これはどういうことでしょうか?
(以下、正統的な神学の解釈とは何の関係もありません。ご了承ください)

アダム的認識の世界観

 あらためてアダム的認識の世界を確認します。
 それはまず時間(=生死)と空間(=分離)が支配する物質世界です。それは二元性の世界ですので、つねに対立、葛藤が生じます。
 物質からなる広大な宇宙空間の中には無数の銀河系がありますが、そのうちの一つの中に太陽系があり、その中にはいくつかの惑星があります。そのうちの小さな惑星の中にさらに小さな身体を持った「人」がいます。その身体の中に心があり、その心の中に「私」がいます。
 身体と心の中に閉じ込められたあまりにちっぽけな存在である「私」は、死に怯えながらも外側の社会や人やモノに依存しながらなんとか生きています。そのような物質的な時空の中をいくら探しても「神」などどこにも見つかりませんから(神は物質ではないから当然ですが)、したがって物質に依存するしかありません。いわゆるわれわれの常識的な世界観です。

キリスト的認識の世界観

 一方、キリスト的認識の世界はそれを逆さまにして考えてみます。
 まず時間と空間がありません。したがって生も死もなければ、対立や葛藤もありません。時間と空間がないので当然、物質も存在しません(とか言いつつ神は土から人間をつくりましたが、それはこの世界における物質とは違うのでしょう)。そこは永遠の世界(=楽園)です。
 その永遠の命のうちに〈わたし〉があります。それは神とひとつの存在です。その神とひとつである〈わたし〉のうちに〈こころ〉があります。その〈こころ〉は個人的な心ではなく、すべての衆生をつつみこんだ〈こころ〉です(御こころといってもいいですし、仏教的に言うなれば一心です)。その〈こころ〉のうちに〈からだ〉があります(禅的に言うなれば「尽十方界是箇真実人体」「生死去来真実人体」といったところでしょうか)。その〈からだ〉のうちに実相としての〈世界〉があります。
そして、その〈実相世界〉の“影”として存在しているのがアダム的な物質世界(四次元時空)です。

神のひとり子

 神とともに永遠性のうちにあった〈わたし〉、つまりはそれが「原アダム」(=最初の人)でしたが、その〈わたし〉が罪を犯し、物質世界のアダムである「私」たちになりました。しかし同時に、同じ〈わたし〉が、今度は「キリスト」(=最後の人)となって神のもとからこの物質世界にやって来ました。
 そして物質世界に受肉した〈わたし〉はイエスという「人」の姿をとって物質世界のアダムたち(=分身である兄弟たち)と交流しました。そのとき、ひっくり返った世界はメビウスの輪のように一本につながりました。
 ですが、(一部を除いて)ほとんどのアダムたちは、神のもとを一度離れたわけですから、今さら本当の〈わたし〉のことなど思い出したくありません。思い出すと今の自分たちが否定されてしまう気がするからです。
 なので、彼らはキリストを磔にしました(それは自分自身を磔にしたということです)。
 しかしキリストは兄弟たちによって磔にされることによって、逆に、兄弟たちのすべての罪をゆるしました。そして復活することで、死(=罪)は存在しないことを弟子たちに証明し、神のもとへ帰って行きました。(ということになっています)
 
 この話から分かることは、神のひとり子である〈わたし〉が神のひとり子であった〈わたし〉の罪をゆるしたということ、もっとシンプルに言うなら、自分で自分のことをゆるしたということです。
 というのも「最初の人」(アダム)が「最後の人」(キリスト)になって「最初の人」(アダム)の犯した罪をゆるしたのですから、「最初の人」も「最後の人」も実は同じ〈わたし〉なのです。
 神のひとり子はひとりだけです(当たり前ですが)。

パウロの回心

 このことはパウロの回心の話にもよく表れています。
 ガチガチに律法で自分を縛り付け、イエスの弟子たちを迫害していた回心前のパウロ(=サウロ)でしたが、あるとき閃光とともに地に倒れ、キリストの声を聞きます。
 
 「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」
 
 この声は〈わたし〉の声、つまりパウロが迫害していたパウロ自身の声でもあったのだろうと思います。パウロはこのとき、自分が自分自身をずっと迫害していたことに気づきました。そして自分のことを本当の意味でゆるしたのです。

罪の投影と「ゆるし」

 そもそもアダムは、イヴに誘われて善悪の実を食べたのだと主張しましたが、本当は善悪の実を食べたとかはどうでもよく、「相手が悪い」という思いを持ったことが原初の罪だったのかもしれません。そこには漠然と抱えてしまった罪悪感(不安)と、それを否認するために罪悪感を相手に投影し、相手を非難するという自我の原型が見られます。
 罪を投影されたイヴは、蛇(という実体のない「悪者」)に罪をまた投影します。その連鎖が始まります。
 でも実体のない「蛇」は漠然とした罪悪感の象徴でしかないので、自分の中にしかいません。なので、終わりがありません。

 自我を持ってしまったわれわれは、どうしてもお互いぶつかり合います。それは自分同士で争っているだけなのですが、どうしてもそのときはそうは思えません。そういう世界なので仕方ないです。
 ですが、相手をゆるすとき、それは自分をゆるしていることになります。同時に自分をゆるすとき、相手もゆるしています。

イヴとは誰か

 アダムの話ばかりしてしまいましたが、そもそもイヴとは誰なのか。
 イヴとは今、自分の目の前にいる人のことです(それがどんな人であれ)。
 アダムとは「我」(わたし)であり、イヴとは「汝」(あなた)のことです(これは男女の話ではありません)。
 
 罪の投影があるとき、そこには「我と汝」の関係にヒビが入ります。ですが、相手をゆるすとき、そのとき相手は「汝」(あなた)であり、原初の関係が修復されます。ですが、それは実は自分をゆるしたということです。
 だから、その相手(あなた)とは「我」(わたし)でもあります。「我」と「汝」は本来、対立していません。
 「我」と「汝」は同じ神のひとり子の〈二つの側面〉です。それは「最初の人」と「最後の人」がゆるしを通じてひとつになったことと同じです。

自分へのゆるし

 長々と勝手なことを書いてしまいました。
 結局、人にできることは自分をゆるし、相手をゆるすということ以外にないのかもしれません。
 そういえば、西田幾多郎が、昨日の「我」は今日の「我」にとっての「汝」であるというようなことをどこかで書いていた気がします。過去の自分は「汝」であるから、過去の自分をゆるすことが自分をゆるすことの第一歩である気もします。
 キリストの示した義が「ゆるし」であり、それが楽園への道であるならば、それだけが唯一、自分自身を救う道でもあるのだと思います。(まあそれが難しいんで、坐禅とかしているんですが。。)
 以上になります。ありがとうございました。


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