「現成公案」メモ⑤
「しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」
仏道においては、絶対肯定の面(如是)と絶対否定の面(不是)とが一如であり、その両面(豊倹)をも超出していくという修行のかぎりにおいて、本当の「生滅」が現成し、本当の「迷悟」が現成し、本当の「生仏」が現成するということであった。
「しかもかくのごとくなりといへども」の「かくのごとく」とは「是の如く」と書くので「如是」ということである。
仏道とは絶対肯定と絶対否定が一如であり、その両面をも超出していく本当の「如是」なるありかたであるが、それでも、花は愛惜のうちに散り、草は嫌われながら生えるものだ、という。
花と草
一つの解釈としては、「花」は”悟り”、「草」は”煩悩”を意味し、悟りに執着すればするほど悟りは遠ざかり、煩悩を忌避すればするほど煩悩はよけいに起こる、という意味合いに取れる。
もちろんこの意味もあると思う。
ただ、そういった比喩的な意味だけでない。
花は花ながらに、如是(あるがまま)なるありかたで、愛惜のうちに散り、草は草ながらに、如是(あるがまま)なるありかたで、棄嫌のうちに生えるのみである。
「のみである」というのが効いている。これは、花は花、草は草で、対立関係になく、各々が各々の本分をもって存在を全うしているということ。つまり事々無礙であるということを言っている。
ここには華厳の思想がある。
華厳と天台
華厳の四法界に即して一節全体を言うのなら、
①「諸法の仏法なる時節~」=事法界
②「万法ともにわれにあらざる時節~」=理法界
③「仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに~」=事理無礙法界
④「しかもかくのごとくなりといへども~」=事々無礙法界
と、こうなる。
もしくは天台の「空仮中」で言うのなら、
①「諸法の仏法なる時節~」=仮
②「万法ともにわれにあらざる時節~」=空
③「仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに~」=中
ということになる。
花は花、草は草、という如是(あるがまま)が成立するのは、花も草も、ともに「空」(不是)であるからである。
このように、道元禅師の思想的背景には、『法華経』と空の思想を統合した天台思想、および華厳の思想が色濃くある。(晩年にはそうした大乗仏教から釈尊の仏教へと原点回帰したのだ、という意見もある。それも分かるけれど、またそこで、大乗VS原始仏教みたいな対立図式をもってきて、道元をどちらかに分類しようとするのは、戯論だと思う。道元禅師の仏教はより包括的かつ根本的である)
もとより、ただの理論的理解に終わってはだめで、やはり坐禅を中心にした身心を挙げた弁道によって実証されていかなければならないというのは当然のことではある。
でも、こうした理論的構造を理解しておくだけで、『正法眼蔵』はかなり読みやすいものになるのも事実だと思う。
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