「山水経」メモ③
引き続き、芙蓉道楷禅師の「青山常運歩」について。
「常運歩」とは青山(法身)の永遠の歩みのことであり、それは始まりも終わりもない〈いのち〉のはたらきである。
「いま仏祖の説道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。『常運歩』の示衆を究辨すべし。」
《今の仏祖(芙蓉道楷禅師)の道を説くことばが、まさしく自己の歩みを指し示している。これは自己の根本を得るためのことばである。「常運歩」の示衆(説法)を明らかに参究しなさい。》
「運歩のゆゑに常なり。」
《歩みがやまないゆえに「常」(永遠)なのである。》
「常」(永遠)というのは、〈いのち〉それ自体は不動であっても、そのはたらきは永遠にやむことがない、つまり、その両面(不動と動)があってこそ本当の意味で「常」(永遠)といえる。が、むしろ道元禅師はいつも後者を重視している。なぜなら、そこにこそ人が身心をもって生きていることの、つまり「行」というものの意味があるからである。
「青山の運歩は其疾如風よりもすみやかなれども、山中人は不覚不知なり、山中とは世界裏の花開なり。」
《「青山」の歩みは疾風よりも速やかであるけれども、「山中人」はそれを覚知しない。覚知(認識)を超えているのである。「山中」とは世界の裏側で仏の心が花開いているということである。》
「山中人」とは
「山中人」というのは、自己の本源である「山」(法身)に完全に帰している人、つまりブッダ(仏祖)、「本来の面目」のことである。「山」そのものとなっているため、「山」の歩みを対象として覚知することはない。「不覚不知」とは覚知(認識)を超えた世界にいるということ。
「青山」の歩みは疾風よりも速やかであるというのは、その歩みは時空以前の消息なのだから、物質次元における速さとして計測できるものではないということ、いうなれば「刹那」である。
「山中とは世界裏の花開なり」というのは、般若多羅尊者(西天二十七祖。達磨大師の師匠)の「華開世界起」(法の華が開いて世界が生起する)という偈からきている。「山中」はこの世界の万物を生起させている〈いのち〉のはたらきの本源であり、それが仏の心であるが、ここではそれを華(花)として表現している。
「山外人は不覚不知なり、山をみる眼目あらざる人は、不覚不知、不見不聞、這箇道理なり。」
《「山外人」(=「山」から外れた人)は本来の自己に対する覚知がない(つまり覚ることがない)。「山」を観る眼目(=正法眼)がない人は、本来の自己を覚ることはないし、見聞することもない。だが、それも這箇(今こことしての自己)の道理である。》
「山外人」というのは、「山中人」とは逆で、「山」という本来の自己から外れている人、すなわち凡夫のことをいう。ここでの「不覚不知」は単純に覚ることがないという意味。仏法を知らず、本来の自己を観る眼目(=正法眼)がないから当然である。それゆえ、「不見不聞」、つまり、見色・聞声(霊雲桃花、香厳撃竹)のような覚りの体験も起こらないということ。
「山中人」であろうが「山外人」であろうが、「山」という〈いのち〉のはたらきに生かされている点において違いはない(それを覚っているか否かはさておき)。したがって、自己を見失って生死流転している凡夫のすがたも、それ自体、まぎれもなく自己の道理なのである。
「もし山の運歩を疑著するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。」
《もし「山」の歩みを疑うのならば、自己の歩みをもいまだ知らないということである。自己の歩みがないわけがない。自己の歩みがいまだ知られておらず、明らかにされていないということなのだ。》
「山」(法身)の歩み、つまり〈いのち〉のはたらきが、自己の生きるすがたである。だから、「山」(法身)の歩みを疑うならば、自分自身の本当のすがたを知らない、明らかにしていないということになる。
「自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をもしるべきなり。」
《自己の歩みを知ろうとするように、まさに「青山」の歩みをも知るべきである。》
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