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「現成公案」メモ⑥

第一節では、「諸法の仏法なる時節」(如是・絶対肯定面)と「万法ともにわれにあらざる時節」(不是・絶対否定面)が表裏一体(一如)であり、その両面をも超出していく仏道修行において、本当の「生滅」(生/死)、本当の「迷悟」(迷い/さとり)、本当の「生仏」(衆生/諸仏)が現成しているということだった。

続く第二節以降は、その基本構造を背景にしながら、すべてが一如であるということはどういうことか、さまざまな角度から具体的に論じられていく。

 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すゝみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。
 身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かゞみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すゝみて自己を修証するはさとりなり。

諸法(自己)と万法(非自己)が表裏一体(一如)の関係にあるということを見た。ということは、「迷」と「さとり」も表裏一体(一如)である。したがって、「迷」が悪で「さとり」が善などという二元論的な思考は捨てなければならない(そうした二元論は世法であり仏法ではない)。

自己を運ぶ、つまり自己という主体を先に立てて、客体世界に向かおうとすれば、当然、世界はその本当のすがたを隠してしまう。

「万法」は法(ダルマ)としての世界のことであり、「自己」も法(ダルマ)としての諸法(五蘊)である。どちらも同じ法(ダルマ)としてのありかたであり、自己と万法は、法(ダルマ)というありかたにおいて一如である。一如であるので、どちらかが先に立てばどちらかは隠れる。

しかし、裏を返せば、自己を運ぶというのは、自己が固定された主体として先にあり、それに対して世界が動いているのではなく・・・・・実はすでに万法のほうが主体となって進んでいる、ということでもある(これはのちほど、舟と岸の関係として語られる)。

これは相対性原理のようなもので、どちらが主体か客体かというのはどちらに視点を置くかの違いに過ぎない。だから自己を運ぶということは、裏から見れば、万法が主体となり、自己を証しているのである。だが、ふつうはそうは思えない。

なぜそう思えないのかと言えば、自我という誤った主体観念があるからである。
自我は世界と自己を固定された空間性のなかに置き、対立させてしまう。それによって主体と客体は分離されたまま固定され、自己と世界の一如なる関係は転倒してしまう。そこで自我としての「私」が見ているのは、自分から分離してしまった対象としての世界だから、それは万法ではない。同様に、世界から分離してしまった「私」も本当の自己ではない。この分離の観念こそ「我」が生じる根本である。だから、いま一度、正常なありかたにすべてを反転させなければならない。

自己というのは空間的に固定された「私」(我)ではなく、万法そのものだということである。それは、「私」(我)と「世界」という二つの存在が一体であるという意味ではない。分離された二つのものをイコールで結びつけても一如にはならない。一如だということは、表裏として・・・・・一体であるため、そもそも分離できないということである。

自己(主体面)が消えているとき、それを「万法」と呼ぶ。万法(客体面)が消えているとき、それを「自己」と呼ぶ。自己が裏のときは「万法」のみであり、万法が裏のときは「自己」のみである。どちらも同じものを異なる面から違う呼び名で呼んでいるにすぎない。

本文に即して言うのなら、自己という主体面が消えている(裏にある)とき、万法が進んで自己を修証しているのであり、万法という客体面が消えている(裏にある)とき、自己を運んで万法を修証しているのである。

そして前者を仮に「さとり」と呼び、後者を仮に「迷」と呼んでいる。が、どちらが善くてどちらが悪いのではない(繰り返すけれども、これは仏法から見た「迷」なので、凡夫における迷いではない)。「迷悟」は存在の二極面を言っている。仏法から見れば、どちらも修証である。

修証において、自己が先手となっているのを「迷」といい、万法が先手となっているのを「悟」というのである。


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