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「山水経」メモ⑥

 青山も運歩を参究し、東山も水上行を参学するがゆゑに、この参学は山の参学なり。山の身心をあらためず、やまの面目ながら廻途参学しきたれり。
 青山は運歩不得なり、東山水上行不得なると、山を誹謗することなかれ。低下の見処いやしきゆゑに、青山運歩の句をあやしむなり。少聞のつたなきによりて、流山の語をおどろくなり。いま流水の言も七通八達せずといへども、小見小聞に沈溺せるのみなり。
 しかあれば、所積の功徳を挙せるを形名とし、命脈とせり。運歩あり、流行あり。山の山児を生ずる時節あり、山の仏祖となる道理によりて、仏祖かくのごとく出現せり。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

「青山も運歩を参究し、東山も水上行を参学するがゆゑに、この参学は山の参学なり。山の身心をあらためず、やまの面目ながら廻途参学しきたれり。」

《「青山」も自身の歩みを参究し、「東山」も水の上を流れ行くことを参学するがゆえに、この参学は「山」(=自己)の参学なのである。「山」の身心をあらためず、その「山」の面目のままで、(久遠の時のなかを)めぐるようにして参学してきたのである。》

「青山」と「東山」

ここでは「青山」と「東山」が対になっている。「青山」は法身であり、〈いのち〉そのもののことであるが、では「東山」とは何だろうか。

後のほうで道元禅師自身による説明もあるが、先に言うと、「東山」とは、仏道により自己の本源である「青山」(法身)を完全に自覚した者、つまり仏祖のことをいう。仏祖とは、衆生が本来の自己を完全に自覚し、「山」となった者のことである。
(なぜ「東」なのかはよく分からないが、おそらく『法華経』冒頭の、ブッダが東方・・に光を放つとそこに一切の衆生のすがたが映し出されるという場面から来ているのではないかと思われる。自己に目覚めた衆生が仏祖となる。)

「山水経」の「水」とは

「山」である自己に目覚めた者、すなわち「東山」は、水の上を流れ行くという。この「水」とは何を指すのか。道元禅師もあえてはっきりとは述べていないが、「青山」(法身)である〈いのち〉のはたらきのことを言っているであろうことは想像に難くない。この「水」はただの地水火風の水ではなく、すべての〈いのち〉の根源からくる「はたらき」そのものである。つまり、「仏性」や「法性」もしくは「虚空」など、何と呼んでもかまわないが、そうした〈いのち〉のはたらきのことをここでは「水」と言っている。

山からこんこんと清澄な水が湧き出しているように、「青山」(法身)からつねにはたらき出されているのが「水」である。

したがって、「山」としての自己に目覚めた者である「東山」は、そのはたらきである「水」の上を自在に生きていくというのが「東山水上行」ということばの意味だろう。

「青山は運歩不得なり、東山水上行不得なると、山を誹謗することなかれ。低下の見処いやしきゆゑに、青山運歩の句をあやしむなり。少聞のつたなきによりて、流山の語をおどろくなり。」

《青山が歩むなどということはありえない、東山が水の上を流れ行くなどということはありえない、と、「山」を誹謗することのないようにしなさい。ものの見方が低いところで留まってしまっているから、「青山が歩む」ということばをおかしいと思うのである。教えをちゃんと聞いていないから「流れる山」ということばに驚くのである。》

「いま流水の言も七通八達せずといへども、小見小聞に沈溺せるのみなり。しかあれば、所積の功徳を挙せるを形名とし、命脈とせり。」

《「流れる山」はおろか、いまだ「流れる水」という言葉すらその本当の意味を十分に理解していないといっても、それも小さなものの見方に溺れているだけである。そうであるから、正しい教えにおいては、祖師方によって積まれてきた功徳を取り上げることを修行への確かな標準とし、命脈とするのである。》

「運歩あり、流行あり。山の山児を生ずる時節あり、山の仏祖となる道理によりて、仏祖かくのごとく出現せり。」

《「山」の歩みがあり、流れ行くということがある。「山」が山の子を生む時節があり、「山」が仏祖となる道理によって、仏祖はかくのごとく(=如是)現れ出たのである。》

「青山」の歩みを覚ることが「退歩」である。そして、「山」である自己を自覚し、「東山」となった者は「水」の上を流れていく。それが「進歩」である。それは「青山」が自分の「子」を生む時節であり、それは「山」が仏祖となったということである。仏祖がこの世に現れ出るというのはそうした道理なのである。

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