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「菩提心」について②(自未得度先度他の心)

 前回、菩提心を発(おこ)すとは無常を観ずることだという道元禅師の言葉(『学道用心集』)について書いた。
 一方、道元禅師は『正法眼蔵』の中で以下のように言っている。

 「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり」「『発心』とは、はじめて『自未得度先度他』の心をおこすなり、これを初発菩提心といふ」(「発菩提心の巻」)

 菩提心をおこすとは、自らが完全に救われる(彼岸に渡る)前に、一切衆生を救おうと発願し実践していくことであり、「発心」とは初めてその「自未得度先度他」の心をおこすことである。

 『学道用心集』では菩提心を「無常を観ずる心」であると言い、ここでは菩提心を「自未得度先度他の心」であると言っている。これは矛盾だろうか。
 そうではなく、菩提心が持つ二つの側面を語っている。つまり前者が智慧(般若)であり、後者が慈悲である。

 仏教には菩提心の象徴として観音さまがいる。
 観世音菩薩とは一切衆生の苦悩の声を聞き入れ瞬時に救う慈悲の菩薩として有名である。
 「観世音」とは、そもそもどういう意味か。「観世音」の「世」、「世間」とはもともとサンスクリット語の「ローカ」(壊れるもの、移りゆくもの)という言葉から来ており、つまり「無常」と同じ意味である。だから「世音」とは「無常の音」すなわち「無常=因果の道理」のことであり、したがって「観世音菩薩」とは「因果の道理をあるがままに観る菩薩」と読むことができる(※ここでの「音」とは音声ではなく「道理」の意味。だから「聞く」ではなく「観る」である)。つまり「観世音」とは「無常を観ずる心」のことである。
 ちなみに、「観世音菩薩」(鳩摩羅什訳)の原語はサンスクリット語で「アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteśvara)」といい、それを玄奘は「観自在菩薩」と訳しているのは有名だが、原語に忠実なのはこちらのほうらしい。「自在」とは文字どおり「自ずから在る」、つまり「あるがまま」ということだから、「あるがままに観る菩薩」が観自在菩薩である。周知のとおり「観自在菩薩」は般若心経に出てくる菩薩で、空を悟った菩薩である。

 では、空を悟り、無常をあるがままに観ることができる菩薩が、なぜ衆生を救う慈悲の菩薩でもあるのだろうか。

 衆生の苦悩とは煩悩である。先ほど世間とは「ローカ」、つまり無常であると言ったが、世間を生きるわれわれ凡夫は、世間と自分たちを無常ではなく常なるものと認識してしまう。その誤った認識をさせているのが自我意識であり、自我意識による誤った認識から生じるのが煩悩苦である。そうした煩悩苦を救うことができるのは無常を無常としてあるがままに観ること、つまり迷い(自我意識)から覚めることによってしかない。それ以外に救いというものはない。
 その「無常を観ずる心」を修行によって深めていくことが同時に慈悲心をあらわしていくことでもある。なぜなら「無常を観ずる」ことは自我意識を忘れることであり、自我意識を離れたところからこの世界を観るとき、すべての人の煩悩苦は全く他人事ではなく、まさに(自我としての)自分自身が鏡のように映された姿であると実感されるからである。人と人の関係というのは、お互いがお互いを映す鏡(我と汝の関係)である。その意味で、この世界には他人など存在しない。ということは自分ひとりだけが救われるということは原理上ありえない。自分が”本当の意味で”完全に救われるということは、すべての人が救われることと同時である。なぜなら、この世に自分と分離した他人など存在しないからである。そのことが分かれば自ずと「自未得度先度他の心」(慈悲心)が見えてくる。
 反対に、自我意識からのみ見るかぎり、この世には(家族や親友、恋人も含めて)自分とは異なる他人しか存在しない。自我意識とは分離の意識であるから、どこまでいっても貪瞋痴の関係にしかならない。そうした関係に立つ以上、自分も他人も救われる(=煩悩から解放される)見込みはゼロであり、自我としての関係性においては愛情や友情、哀れみなどの感情は生じるにせよ、慈悲心が現れるということはない(慈悲心は愛情や友情、哀れみなどとは無関係である)。

 自我意識とは全く逆に、すべてをあるがままに観ずるのが菩提心である。仏教における「観」とは、肯定も否定もなく、すべてが、ただあるがままに在るということである。その菩提心の「あるがまま」に照らされるとき、自分も含め人間の持つ煩悩苦の姿がはっきりとあるがままに浮かび上がる。その意味で、「世音」とは「無常=因果の道理」であると同時に「苦悩の声」でもある。だが、それは自我意識で聞くのではない。自我意識が聞くのは感情的な苦悩であり、「煩悩苦そのもの」ではない。「煩悩苦そのもの」の声は「無常を観ずる心」によってのみ聞く(観る)ことができる。それが聞こえた(観えた)とき自ずと現れてくるのが慈悲心である。
 観世音(観自在)菩薩が、無常を観ずる菩薩であると同時に慈悲の菩薩でもあるというのは、そういう意味である。

 では改めて慈悲によって衆生を救うとはどういうことか。道元禅師は言う。

 「おほよそ菩提心は、いかがして一切衆生をして菩提心をおこさしめ、仏道に引導せましと、ひまなく三業にいとなむなり」(同上)

 菩提心は、いかにしてすべての衆生に菩提心をおこさせて、仏道(無常を観ずる道)へと導こうかと自分の三業(身口意)を通して暇なく営むことだという。ここでは菩提心が主語になっていることからも分かるように、菩提心自身が主体となって、この身心を通して世界に働きかけていることを意味している。そしてその意味するところは、法華経「如来寿量品」にある「毎自作是念〜」と全く同じである。衆生を救うとは、衆生を本来の自己に目覚めさせ、本来の道に導くことであり、それが菩提心の目的である(なので世間的な意味での人助けのことではない)。よって、すべての衆生が本来の自己に目覚めるまで菩提心の活動は続く。それが〈永遠の仏〉と言われるものである。それは各々の身心の活動(三業)を通して具体的に働いているものであるから、超越的な「カミさま」「ホトケさま」のような類いではない。
 この仏の心(菩提心)を自らの中に感得し、それに従い生きていくことが菩薩としての生き方であるが、言うなれば自分が観音になっていくことである。
 観音さまの像を拝みにいく人はたくさんいるけれども、〈本当の観音〉に礼拝する人は少ない。観音さまを拝むということの本当の意味は、本来の自己すなわち菩提心としての自己に礼拝する(=帰命)ことである。
 そして本来の自己に礼拝するということは、すべての人の中に観音さま(菩提心)を見ることである。なぜなら菩提心は本来、誰にも備わっているからである。その意味で、すべての人は本当は救われているのである。

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