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「色と空」について

 般若心経にある有名な「色即是空、空即是色」というフレーズほど誤解されやすい言葉もないと思う。
 よくある誤解として、「我々がふだん見ている物質的現象としての『色』という世界と、我々の知らない何もない空っぽの『空』という世界が二つあり、それが実はイコールである」といったものや、「我々が見ている物質的現象の世界の奥に神秘的な空の世界が存在している」といった意味不明なものなどいろいろある。
 こういった誤解に共通しているのは「色」と「空」が別々な存在として考えられてしまっている点である。その誤解の根本には、「我々が見ている」とか「我々の知らない」と言う時の「我々」という主体が実体として前提にされたまま疑われていないことがある。
 他にも、いかにもそれらしい解説として「物質的現象は全て因果因縁(相互依存)で成り立っている仮の存在にすぎないので実体ではない(無我である)。よって空である」といったものもよく見かける。が、これはほとんど何も言っていないに等しいと思う。そんなことは常識レベルでも分かることだし、それを聞いて救われる人などいるだろうか。結局これも、それを解釈している「私」という主体はしっかりと実体視されたまま放置されている。

 「私」や「我々」が実体視されている限り、それら(自我)を通して認識しているものは全て時間と空間の二元的な形式によるものなので、そこでいくら色がどうの、空がどうの言ってみたところで、意味がない。そもそも、「色即是空、空即是色」という言葉は、照見五蘊皆空(この身心〔色受想行識〕全てが空である、つまり脱落している)という事実(仏法)から来ているものであり、「私」や「我々」が常識レベルで思っている世界観(世法)の話ではない。そうした自我を前提とした常識レベルの世界観に「色」や「空」などを持ち込むと、二元対立の概念になってしまって、よけいに混乱を生む。
 そのことを危惧してか、道元禅師は、「色即是空、空即是色」の後に「色是色、空即空」と言い添えている(「摩訶般若波羅蜜」の巻)。
 「色是色」とは、現象面から見る限り、この現実は、この身心および世界の全活動のみであり、空のかけらもない、ということである。同時に、「空即空」という完全なる空の面から見るならば、この身心および世界の全活動が起こる以前なので、そこには色のかけらもない
 色と空は、そうした実在(ワンネス)の二つの面であり、対立関係にないひとつの運動である。それが「色即是空、空即是色」の意味である。
 どうしても言葉で説明する限り、二つの世界が別々にあるかのように捉えられてしまうが、そうではない。またそれは、色=現象を分析して空だと言っているのでもないのである。

 このように、色の面にも空の面にも、「私」や「我々」という実体が入り込む余地はない。「私」や「我々」を前提にした世界(世法)は、色でもなく空でもなく、ただの妄想の世界である。妄想は思考(意)という現象だから、その意味では確かに色である。同時にそれは実体ではないので、その意味では空であると言える。ただ、般若心経で言っている色と空は、そうした分析的で理屈めいたものではなく、妄想から完全に離れた(「私」や「我々」など存在しないという事実に目覚めた)世界についての端的な表現である。だから度一切苦厄(全ての苦厄から救われている)と言っている。そこには理屈も何もない。このことを理解していないと、二元的な思考の中で「色」と「空」という概念だけがぐるぐると回って、またそれが妄想となって「私」や「我々」を悩ませる。結局、苦厄を作っているのは「私」や「我々」という二元的錯覚だからである。

 禅の公案集『無門関』に「非風非幡」という話がある。
 ある二人の僧が、風で幡(はた)が揺れているのを見て、一人は「これは幡が動いているのだ」と言い、もう一人は「いや、これは風が動いているのだ」と言って議論していた。そこに六祖の慧能禅師が通りかかり、「これは風が動いているのでもない、幡が動いているのでもない、あなたたちの心が動いているのだ(不是風道、不是幡動、仁者心動)」と言った。それを聞いて二人の僧はぞっとなったという。
 この公案の表面的な解釈として考えられるのは、「ある現象を風が動いていると見るか、幡が動いていると見るかは、当人の心の見え方(主観的な捉え方)によるので、どちらも正しいとは言えない。結局、人は自分の心の投影として現象を見ているにすぎない」といった唯心論的なものである。しかし、これでは、「当人の心」というものが実体として想定されてしまっているため、二元的な解釈に陥る。それではまだ常識レベルの話である。
 そうした解釈を避けるためか、無門禅師は「風が動いているのでもない、幡が動いているのでもない、心が動いているのでもない(不是風動、不是幡動、不是心動)」と全てを否定するようなコメントをしている(『無門関』)。これはどういうことか。
 本当の実在、つまり、現象以前であり、かつ現象を現象ならしめている当体は、いまだ「これ(是)」という形で表現できない、「不是」と言うしかないものである。その「不是」が本当の意味での「空」(空即空)であり、本来の自己(私)である。その「不是」と言うしかない「空」が風となり、幡となり、心となって活動している、そのことを無門禅師は「不是風動、不是幡動、不是心動」という言葉で表現しているのだ。だから、これは、ただの否定の言葉ではなく、否定を通した肯定の表現なのである。
 つまり実在としての「空」(本来の自己)は、風でもあり、幡でもあり、心でもあり、僧でもあり、山でもあり、川でもあり、虫でもあり、その他全ての現象=「色」となって活動している永遠の運動体である。
 よって、慧能禅師の言う「仁者心動」の「心」も、「当人の心」といった個別的なものを言っているのではなく、「一心一切法、一切法一心」や「三界唯心」という意味での心である。「不是」(空)と言うしかない一心が、この身心(色受想行識)の働きとしてさまざまな現象となって活動している、それが「本当のあなたたちの姿なんだぞ」と言っているのだ。二人の僧はそれを聞いて、今までリアルだと思っていた常識的世界観とのあまりの違いにぞっとなったのだろう。
 これは自我としての「私」や「我々」を基準にしては決して理解できないことである。しかし逆に言えば、自我としての「私」や「我々」を基準にしなければ、すんなり理解できることでもある。なぜなら本来、誰でも今、色でもあり空でもある実在そのものだからである。


 


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