『平和の希求』 その34

がともかく、事ほどさように、当時、社会の第一線で執筆活動や講演活動や教育活動を積極的に行なっていた多くの有識者や言論人たちには、日本が再び国際紛争に軍事的に関与し得る国家体制の確立に向けて動き出した状況に対する的確な認識と、やがては参戦へと突き進んでいくであろう近未来への洞察・予見が、決定的に欠如していたのです。
 実際、彼らによれば、こんにちのような、湾岸戦争における戦費拠出や自衛隊の海外派遣、それに、新ガイドライン法案や、君が代の君が天皇をさすと本音を晒け出す形で成立を図る日の丸・君が代法案などは、絶対に起こるはずもなければ、成立するはずもない事だったのです。
 今や、わたくしの危機感は、12年前当時に抱いていた、戦争遂行主体の確立と平和の砦の崩壊という状況に対する危機感に加えて、こうしたわが国の言論界をリードする人たちの良識と知性の限界に対する危機感をも抱かざるを得ないものになっております。
 勿論、ここでわたくしが批判する知識人とは、直接わたくしがアピールを行なった人たちに限るわけではありません。12年前以降のわが国の言論状況をみれば、戦争主体の確立と平和の砦の崩壊に対する認識の甘さ、平和の砦の再構築についての不見識は、残念ながら、広く知識人全般に言い得ることです。
 本当に、わが国の言論界は、危機的状況にあると言って過言ではないと存じます。なるほど、ガイドライン法案をはじめ一連の悪法が一気に成立しつつある状況の中で、戦争する主体の存在に対してはそれなりに直視するようになってきたとは言え、平和の砦の崩壊の実態に対する認識と、状況変革のための民主的改革策についての理解は、今も尚まだまだ不十分です。彼らの状況認識の甘さは、決して、過去の話ではありません。現在もまだ、状況の深刻な意味を十分に把握しているとはとても言い難いのです。

 尤も、こうしたわたくしの知識人批判・言論人批判に対しては、現代はもうそうした啓蒙家の役割は終わった、それほどの影響力を有してはいないという反論が返ってくることでしょう。
 しかし、彼らの存在がたとえ相対化して弱小になったとしても、状況認識の甘さと状況変革への非見識が免罪されるわけではありません。客観的役割の実態がどうであれ、彼らは、マスコミをはじめとする言論の場、表現の場において、圧倒的な特権を有しているのですから。やはり彼らには、的確な状況認識と有効な見識が求められて当然でしょう。
 それに、その一般市民・個人への影響力という点で言えば、わたくしがここで再三にわたって指摘していますように、今までの有識者たちが、己の位相の中で論理と言語を構築するのみで、異なる位相にある人たちの論理と言語に対して、正面から向き合うという異論・反論との対話を行なってこなかったという事実も、大いに関係していると、わたくしは確信しております。
 先に述べたガイドライン問題しかり、日の丸・君が代問題しかり、いずれもわたくたち反戦平和の立場に身を置く者たちとは、判断を異にする人たちの意識・感情・観念など、その本音に冷静に耳を傾け――決して彼らの言論を封じ込めるのではなく――、或いは彼らの志向性の誤りを指摘し、或いは知識の歪みを補正し、或いは思考・判断の矛盾を解明するなどして、彼らに得心を与えるような論理と言語を構築することに、あまりにも無関心だったとわたくしは考えます。
 その事が根本的に是正された上でなければ、有識者・言論人たちの役割と影響力の相対性の実態について、断定的な事は言えないのではないかと、わたくしは考えます。
 実際、その役割が終わったのは、知識人そのものではなく、あくまでも、既存の或る種の知識人たちであるかもしれないのです。

 いずれにせよ、反戦平和の流れ――必ずしも、過去の市民運動・社会思想運動における反戦平和運動を指すわけではありません――を社会的に具現する上で、既存の有識者・言論人の限界を早急に突き破らなければならない……、わたくしは、正直そう考えます。
 多くの有識者・言論人たちが過去に果たしてきたその役割と実績を思えば、彼らを批判することには大いなる逡巡がありますが、戦争法案も、盗聴法案も成立し、日の丸・君が代法案も成立必至という局面に立たされた今、そうした主観的な感慨を抱いて、批判を躊躇している場合ではないでしょう。
 わたくしは、一介の無名の個人という身でありながら、なんと不遜な事を言うかと、お叱りを受けることを覚悟の上で、敢えて、平和の砦の崩壊の実態に対する認識と状況変革のための民主的改革策についての理解が欠如し、およびこんにち有効な論理と言語の構築を為し得ていない、既存の多くの知識人たちの退陣、もしくは徹底的な自己超克を求めたいと存じます。
 尤も、平和の砦の崩壊の実態に対する認識が、総体としてみた場合には、甘いと断じざるを得ない知識人も、いずれかにおいては的確な実態認識をしていることもあるかもしれません。勿論、その際には危機感の希薄な国民大衆へを説得すべく彼らの表現の場を大いに活用して戴くことを切に願っております。それに、まだまだ彼らの役割に期待しなければならない国民大衆の層というものがあります。その意味で、先に述べた退陣という表現は、あくまで、彼らの状況認識の甘さを証す問題での彼らの役割について指摘した言葉であることを、付言しておきます。
 そうして、そのような既存の有識者・言論人などの退陣を求めざるを得ない位相において、危機の実態についての深い理解と危機克服への明確な展望と実践力をもった新たな知識人・言論人の登場に期待し、かつ早急に結集されんことを、切に願っております。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?