『晩鐘抄録』 1月6日(月) 【政治的無関心の陥穽】
イランの英雄を殺害したことで、俄にイランとアメリカの間で一触即発の危険が生じてきた。
この11月に選挙を控えているトランプ大統領は、戦争には踏み込まないだろうという楽観論がある一方、むしろ戦争に勝利すれば、コアな支持層となっているユダヤ人の国イスラエル贔屓が多く民主党支持層にも根強く存在する福音教会員から圧倒的な支持が得られるので、一気にトランプ人気が高まるとの見方もあって、事態は不透明だ。
その世界情勢の分析はともかく、ここでは、日本の問題として、「政治的無関心」に焦点をあててみたい。特に若い世代ほど、「政治には関心が無い」とこたえるそうだ。その実感や認識は、くだんのイランとアメリカの間で戦争が勃発したらどういう意味をもつだろうか。
果たして、「政治的無関心」は、有効か?
もちろん、答えは、明白にノーだ。既に、中東への自衛隊の派遣を、先の国会中に安倍政権は「閣議決定」している。
また、「集団的自衛権行使容認」も、「安保法制」という形で、以前の国会において決議している。
国家がそのような政治的決断をなし、法律となっている以上、そして、安倍政権が、歯止めなく、トランプ米国政権に追従している実態の中で、それに対して数多の反戦平和の声を主体的・積極的にあげることによって、政府の暴走を食い止めなければ、日本の参戦は不可避のものとなってしまうだろう。
そこでは、「政治は関心ない」なぞと暢気な事は言っていられない。個人がひとり、主観的に「政治に無関心」と宣っても、政権は、政府は、国家は、そんな個人の意思など、露ほども尊重しない。
戦争とか、戦時体制下といった状況においては、「政治に関心無い」という事なぞ、絶対に許されない話なのだ。
まさに、「政治に関心ない」なぞと言うのは、「平和ボケ」そのものだ。
戦争に、出兵させられるのが嫌ならば、また戦時体制下の窮屈な生活を強いられるのが嫌ならば、行動の自由、行動の選択を奪われて、国家に忠誠と服従を強いられる前に、自らの主体性において、行動を起こさなければならない。
即ち、「政治的無関心」から、脱却することが求められているのである。