私は推敲が苦手だ
Oxford Languagesによれば、「推敲(すいこう)」とは「詩や文章をよくしようと何度も考え、作り直して、苦心すること」だそうだ。昔から、そういった作業は苦手だった。単に、見直すということが面倒だったのだと思う。
例えば小学生のころ、テストの時、一度最後まで問題を解き切ったら、そのままにしていた。うっかりミスがあっても「たまたまだし」と言い訳をしていた。
さすがに今は、仕事のチェックはちゃんとする。心許ないときは、同僚にダブルチェックを頼むけど。そう今でも、ものを見返す作業に対して、苦手意識は持ったままなのだ。
そんな私がこの間、推敲をみっちりやってみた。
きちんと文章に向き合いたかったから。
世の中には素晴らしい文章がたくさんある。ちょっと疲れたとき、頑張れないとき、「世界なんて滅びろ!」と自暴自棄になっているとき。
私は言葉に救われて今まで生きてこれた。
私も、そんなふうに人の心に働きかける文章を書きたくなったのだ。
意味もなくただ書くのが好き、というのも理由の一つ。けれど、私が何かを書くことで、誰かを救えたら。そこまでできなくても、読むことでちょっとでもホッとできる文章が書けたら。そう思って、きちんと文章を書くということ、特に推敲することに向き合ってみた。
正直、吐くかと思った。
めちゃくちゃ辛かった。
自分が書いた文章を、何度も何度も読まなければならない。自分のつたない、勢い任せな文章を見直すというのは死ぬほど恥ずかしかった。それに推敲とは、ただ文字を目で追う作業ではない。
「この文章、意味が通っているかな」
「読んでいる人が混乱しないかな」
など、読者に対して親切な文章が書けているかどうかの、ツッコミを入れていく作業だ。
私が推敲を見直すようになったのは、ある人のアドバイスがきっかけだった。そのとき、私は恥を忍んでその人に文章を見せた。今思えば、めちゃくちゃショボい文章を見せていたな、と思う。もちろん、心をこめて書いた文章だった。けれど、文章を書くということがどういうことか、全然わかっていなかった。
「ねねさん、推敲に力をいれましょう」
私は図星で心がズキズキ痛んだ。
その人は、
「コイツ、推敲めちゃくちゃ苦手なんだな」
ということが、一目でわかっていたと思う。プロは人の弱点を臆せず伝えてくれる。その人のおかげで、その時とりかかっていた作品は、非常に良い作品になった。感謝してもしきれない。
けれど、一度推敲をみっちりやりきると、こんなことが起きた。新しい文章を一から書くのが怖くなったのだ。Twitterとか、短い文章などは遠慮なく書ける。けれどnoteなど、まとまった文章が、なかなか書けなくなってしまった。
理由は「この文章は読者に対して親切な文章だろうか?」というツッコミが、文字を一文字書いた瞬間、頭の中から湧き出てくるからだった。
「その文章、それでいいの?」
「そのテーマ、ホントに面白い?」
「つまんないな~、恥ずかしくないの?」
いろんなツッコミが飛んできて、文章を書くのが怖くなった。しばらくTwitterばかりしていた。スマホゲームのレベル上げにも手を出した。文章と向き合いたくなかった。でも文章を書かないと上手くはなれない。書くのを拒んでも、ストレスは溜まるばかり。
でも解決策は、急に現れた。
ひとまず一気に書き上げてしまえばいいのだ。
一語一句に対する「それでホントに良いの?」というツッコミを無視して、まずは一気に書き続ける。ある程度書いた後、そのツッコミに、一つひとつ対応すればいいのだ。そうするしかないことは、心のどこかでわかっていた。けれどそれがとても大変に思えて、手が付けられなかったのだ。それを今何とかやっている。めちゃめちゃ大変だ。慣れてないからね。
良い文章を書くためには、とてつもない努力が必要だ。世の中には、たくさんの素晴らしい文章がある。けれど自分の文章は、なかなか成長してくれない。簡単に上手くなれないことは知っていた。けれどここまで難しいなんて、分かってなかった。きっとまだまだ、知らないことが山ほどあるのだ。
でも私はこれからも、文章を書き続ける。
そうしないと生きてはいけないから。
私が文章に救われてきたみたいに、文章で誰かを救える日がくればいい。そう願ってやまない。
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