目を開けてお祈りを 第7話
高校一年生の四月。クラスには高校から入学してきた人もいた。アケミもその一人。
「都会の学校ってピカピカなんだね!?」
彼女は校内の施設に圧倒されていた。口をあんぐり開けてチャペルの天井を見ている。三年前の私もこんな感じだったのかな。素直な彼女とは気が合うみたいだ。
他にも嬉しいことがあった。牧師先生の授業を受けられるようになったのだ。「黒板が日差しで見えにくいから」とか何とか言って、私は視力が1.5にも関わらず、前から一、二列目の席をキープした。
先生の担当教科は「聖書」だった。最初の授業で、この授業では聖書に書かれていることを学ぶ、と説明された。没後三日で生き返った人がいるとか、この世は七日でできたとかいう話も聞いた。ホントなのかしら。
授業が受けられるようになったものの、教科書の読み上げの時しか彼から話しかけられることはなかった。授業中の雑談も自分の話はほとんどしないので、余計にミステリアスな人に見えた。
これ以上関わるには自分で話しかけに行くしかない。でも話題も無い。悩みに悩んで四回目の授業の後に、
「神様ってホントにいるんですか?」
と質問してしまった。
喧嘩売ってんのか、相手は牧師だぜ?
「うん、いるよ?」
しかし意外にも、彼はあっさり言った。さも当然だとでも言うように。そのあとベラベラと「神様はいつもそばにおられる」とかいう話をしてくれたけれど、私はその温かく低く響く声だけに聞き入っていた。
彼の授業は黒板の書き写しがメインで、ノートの提出も必要だった。
自慢じゃないが私の字は汚い。先生にそんな文字をさらすのはイヤだ。私は必死で丁寧な文字を書いた。
正直、先生の教科自体は好きではなかった。聖書の人物の名前はカタカナばかりで覚えられない。受験に使う予定もないし。
クラスメイトもこの授業では、聖書や讃美歌を机の前のほうでバリケードにして、他の教科の課題をしたり、ゲーム機でゴーカートをしていた。
アケミもスマホでフィギュアスケートの試合を観ていた。
教室にあるマリア様の敬虔な表情が描かれた絵も、その授業中はあきれ顔にしか見えなかった。
私はみんなみたいなことはできなかった。要領よく勉強に取り組めていれば、成績は上がっていたのかも。
学年があがるにつれ、受験へのプレッシャーも増していった。
高校一年生のゴールデンウイークの夕食の時間に「国公立大学しか認めないからな」と父は言った。私はのどに夕食をつまらせた。英語コースに行くよう言われたとき以上の衝撃だった。
あのとき以上に、「受験までまだ時間もある。まあ、サナエなら頑張れるんじゃないか」の一点ばりだった。私はイワシ団子のおすましと一緒に「嫌です」という言葉を飲み込んだ。
私は、なんとか自分でも入学できそうな大学や学部は無いか探した。可能性がありそうな所は見つかったけど、偏差値的に望みは薄かった。
桜やヒマワリは、そんな私を無視して季節を告げる。季節が移ろう姿はカウントダウンに思えて苦しくなった。
英語コースの勉強は大変だった。同じコースの1/3は帰国子女。英語の映画を字幕なしで観る授業を受けてるときなんて、こっちはチンプンカンプンなのに、周りでは爆笑が起きていた。とりあえずニヤつくフリはしたけど、虚しいったらない。
高校に進学してから、英語の科目で私が成績優秀者リストに載ることもなかった。英語の先生に補習を頼むも、難しすぎて頭に入ってこなかった。
ーーーーー
「アケミはどこ大志望なの?」
「〇〇大学かな、国際学部なら推薦もあるし。ひとまず学校の勉強を頑張ろうかなって」
高校から入学してきた子たちは基本的にレベルが高い。アケミもそうらしかった、薄々気づいていたけど。学内の美しさに惚けた彼女を笑ったことがあったな、今更ながらそんな自分を恥じた。
「サナエはどこ志望?」
「□□大、でも全然自信ない」
「おおー。でも、いまから頑張れば間に合うんじゃない?どこの学部志望?」
アケミはリップクリームを塗りなおしながら言った。
「経済学部」
「サナエ経済なんて興味あった?」
「国公立で文系で、私でも入れる可能性がかろうじてある学部はそこだけなの」
「国公立に行きたいの?」
他意はなかったのだろう、でも私には尋問だった。
「だって国公立しか行っちゃだめなんだもん」
アケミにも父の話はときどきしていたからだろう、彼女は状況を察してくれたらしい。
「…サナエパパが厳しいのは知ってるけどさ」
アケミは努めて優しく言った。私は泣きそうな顔でもしていたんだろうか。
「親の言うことを100%聞く必要ないんじゃない?サナエが大学で勉強したいことは何?話はそこからじゃない?行きたくない大学に向かって頑張ることほど、難しいことはないよ」
話を聞いているうちに私はぐったりしてきた。ずっと目をそらしていた現実を突き付けられてしまったから。
「アケミは怖くないの?私に踏み込んでそんな話をすること」
彼女は少し焦った顔をした。
「ごめん、迷惑だったかな」
「そうじゃなくて、私は友だちが困ってたとき踏み込めなかったから」
昨年マナがそっぽを向いていたあの姿が、まだ脳裏に焼き付いていた。
「そうなの?意外。サナエは入学式のとき、緊張していた私に『英語コースの教室はこっちだよ』って助けてくれたじゃん」
「そう?私アケミが大きく口開けて、建物の天井見上げてたことしか覚えてない」
「なにそれ!?」
彼女は紙パックのレモンティーをブクブクさせていた。でも、私も気づかぬ間に誰かの役に立っているらしい。さて、そろそろ腹をくくる時が来たのだろうか。その日私は、進路相談室に足を運んだ。
そこには大学案内のほかに、学部紹介雑誌が置いてあった。同じ学部でも、どの大学のほうが相性が良さそうか、各大学の特色などがまとめて載っているのだ。
私はそれらを読み漁り、
・家から通えて(一人暮らしはもっと許してもらえそうに無い)
・自分の興味に合っていて
・合格の可能性がありそう
といった条件を満たす大学とその学部を探した。そんなに多くなかったけど、親から言われていた大学よりも、ずっと行きたいと思えるところが見つかった。問題は、それをどう父に伝えるかだった。
一週間たっても、二週間たっても父に話をすることができなかった。
結局、親には黙って、それらの大学を受けることにした。悪いことをしているようでモヤモヤした。
そんな生活での数少ない息抜きの時間が牧師先生の授業だった。興味のない話を、その声が好き、先生が好きという理由だけで、丁寧に書き写した。
彼には、授業をサボっている子たちの姿は丸見えだったと思う。でも叱ることはなかった。おしゃべりが騒がしいとき以外、声を荒げもしなかった。生徒を当てるときも教科書の読み上げが主で、意地悪な質問も全くしなかった。
彼は関東出身で、関西で生まれ育った生徒たちには所作、特に話し方が新鮮に映った。
「先生の標準語ってかっこいいですよね」
「そう?関西弁も可愛いよ」
そういうことをサラリと言う人だった。
高校校舎には人間慣れした猫が一匹住みついていた。「ブチちゃん」とか「大福」とか呼ばれている、白地に黒い丸模様のぼってりした猫だった。
十一月の聖書の授業中、暖房の効いた教室の換気のため、少し教室のドアを開けていた。すると、ヌルりと小さな影が。ブチだ。生徒たちはコソコソし始める。
先生に見惚れていた私もさすがに事態に気づいた。暖かい空気に誘われてきたのだろう、ブチは空調が当たるアケミの机目がけてジャンプした。
叫び声が部屋中に響く。授業どころではない。アケミは何とかスマホは死守したものの、聖書と讃美歌のバリケードはブチに蹴とばされてしまった。当の猫は気にせず香箱座り。
ただ、牧師先生だけは躊躇なくブチに近づいた。背後からそのモッタリした身体を持ち上げる。
「ちょっと待っててね」
自然に持ち上げられたからだろう。猫もキョトンとおとなしい。先生はそのままブチを教室の外に置き、ドアを閉めた。先生は何事もなかったかのように授業を再開した。
私たちはザワザワ喋るのを止められなかった。けれどそれをスルーして板書する彼の強引さに流され、落ち着きを取り戻していった。この猫にも生徒にも媚びない、かつジェントルなところがたまらなく好きだった。
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