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小説を書き直す作業。

今日は昨日より、どこか憂うつで。

外に生えている木々が日に照らされ、窓のブラインドに陰をつくっている。時々風に吹かれ、陰がゆらゆら揺れていて、それを眺めていると、心が外を散歩しているような、そんな心持ちになる。


以前書いた小説「蝉しぐれ。」を書き直している。読み返すうちに、物足りなくなったというか、もっと作り込みたくなった。

梶井基次郎の「檸檬」などは、京都の街並みを見て歩き、そこで過ごしたことをもとに書かれていることが伝わってくる。私も、そのような文章を書きたい。

京都を例に挙げると、歴史的建造物も多く美しい街。そして嵐山に行けば、竹林の小径など、自然も多い。

そんなところを訪れて、街並みを目に焼き付けて書かれた文章には、その街の空気や香りを含んだ、豊かな文章になるに違いない。

ただ、私はそういった印象に強く残る街、例えば、京都などで長く過ごした、という経験がない。

ひとまずというか、地元の風景を取り入れて小説を書いては見たのだが、あまり詳しく書きすぎると、あそこか、と分かる場所なので、適度な範囲で書いている。

書きたい内容と地元の風景が合っているので、この風景を取り入れたいな、とはぼんやり思って書いていたのだが、先日改めて該当の場所を訪れてみたところ、面影はあるものの、変わっていたところも多かった。

いささか残念ではあったものの、その変わってしまった寂しさについても上手く盛り込めたら、素敵な文章になりそうだ、と修正するにいたった。

別に、京都や奈良など、印象に強く残る街を一日かけて観察して、それを小説に活かすのもいい。

ただ今回は、書きたい内容と地元の風景が合っていたこと、その空気感とかそこで生活する人の感情がにじみ出た町並みを表現できればと、地元の風景を参考にすることにした。


ある人が「私なら、この風景を素敵な言葉にして読者に届けることができる、その自信がある」と言っていた。

その人の該当の文章は、サラリと読んでしまうような、本筋とは関係のない場面だったのだが、澄んだ空気、人込みの温度感などが目に浮かぶようだった。

一つの作品をつくるために、膨大な時間をかけている人もいる。ある程度は区切りを付けなければならないが、小説というのは、片手間ではできん、ということが改めて分かった。

どこか自分の文章が薄っぺらいような、そんな気がしてしまう。見直すとか書き直すとか、そういった作業が苦手な私でも、この作品をこのままにしておくのは、この子たち、登場人物たちに失礼だ、と感じた。

今、情報をエクセルで整理したり、いろいろと、どうすれば良い文章が書けるのか、考えながら修正をいれている。

考えることでしか変えていけないのだ。淡々と取り組むとする。

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