強くシンプルな身体たちの関係性を考える~2007年6月3日 京都コンテンポラリーダンス・ラボ13 ガラ・パフォーマンス公演

 冒頭に舞台に置かれていた、組み合わされた白い壁のせいで、'70年代フランス現代美術の一つのムーヴメントであったシュポール/シュルファスを思い出したりしたものだから、なんだか身体表現のメタな層が気になってしまった。シュポール…というのは、美術の支持体つまりキャンバスや木枠などの「もの」に着目した芸術思潮で、ではダンスにとって支持体などという概念は成立するのだろうか、などと。
 Monochrome Circusの「朱鷺に寄せる哀歌」は、坂本公成がまさに支持体のように小寺麻子の身体を十数分間支え続けるというもの。坂本が両手両足の四点で捧げ持つように宙に浮かせた小寺の身体は、自律的かつ自在に、柔らかく激しく撓んだり伸縮したりする。それが坂本の四肢から逃れようとしているのか、楽しみ戯れているのか、全く無関係にただ自身の生を躍らせているのかは、にわかには定めがたい。しかしもちろん坂本の身体は支持体であるにとどまらず、別個の独立した存在として小寺と交感する。跳んだり跳ねたり、ぶつかったり離れたりという派手なコンタクトではなかったが、内側に込められた力の大きさと激しさがダイレクトに客席に伝わる、優れた作品だった。
 逆にと言っていいのか、跳んだり跳ねたり、ぶつかったり離れたりすることで、2人のダンサーの関係性の激しさを強く観客に刻み込んだのが、j.a.m.Dance Theatreの「tango」。森井淳に久万田はるみが激しくダイブし、壊れるのではないか、骨が音を立てているのではないかとまで思わせた後、激しい抱擁を経て、今度は抱き合い重なり合い、密着したままごろごろと転がり続けていく。
 この2つの作品が特に素晴らしかったのは、その構成が非常に強くシンプルだったからだろう。その強い枠組みによって、身体とは、ダンスとは何だろうかというメタなテーマを改めて考えることもできた。そういう作品を、コーチング・プロジェクトという一連のワークショップの冒頭に見せられたことは意義深く、ワークショップ参加者には必ずこれを見てもらうようなことはできないものかとも思った。
 終演後のトーク・セッション「踊る身体とは何か?」では、トレーニングの方法やダンスを始めたきっかけなどをたっぷりと聞くことができ、ずいぶん面白かった。身体鍛錬の層と、芸術としての創造の層との両面が語られたことがよかった。

(京都芸術センター「明倫art」2007年8月号掲載)

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