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内なる飢えた子供のためにだけ

黒田喜夫の第一詩集『不安と遊撃』1959年、飯塚書店。第10回H氏賞。
集中に収められている「毒虫飼育」を読んだ時の衝撃は忘れられない。言葉で、これほどまでに気持ちの悪い強烈な世界を創ることができるのかと。そして言葉の持つあくまで断定的な、スピード。1959年の段階で
 おかあさん革命は遠く去りました
 革命は遠い砂漠の国だけです
 (中略)
 革命ってなんだえ
 またおまえの夢が戻ってきたのかえ
 それより早くその葉を刻んでおくれ
などという行を書く、精神の強さ。ぼくには未知の、日本共産党の路線転換に伴うのだろう、入党と除名などの葛藤や憤怒を超えて、言葉は過激さの中に透明感を失わないのは、奇蹟のようだ。
仕事でよく、清瀬で療養をしていた黒田さんのご自宅に原稿をいただきに行った。結核の予後で息の荒い黒田さんは、床の中で原稿を読み直し、時に少し手を入れた。青い万年筆の、やはりスピードを感じさせる筆跡だった。
最近になって『不安と遊撃』初版本を買ったのは、今年の授業で黒田さんの評論を紹介したかったからだ。コロナ禍の現在、芸術が生命の維持に対峙させられている。多くの芸術家たちが「まずは生命の危険を回避すること、は当然です」という。いっぽうで、ぼくのまわりでは「人間いつか死ぬんだし、死んでもいいけど」という。人に感染させるリスクを問題としているので云々。
で、授業で、サルトルの「飢えた子に文学は重きをなすか(何ができるか)」論争を少し紹介して、文化はこの危機の時代に大切か、という議論を紹介した。
日本でのその議論で最もシンパシーを感じるのが、黒田さんの「詩は飢えた子供に何ができるかーサルトルらの発言をめぐって」。現代詩文庫で13ページという長編評論で、スターリン批判を踏まえた、厳しい議論が展開する。
引用したいところはたくさんあるが、「われわれにとって、飢えとは、ただ飢えであることは決してない。飢えは記憶、悩ましい喪失の未来である。」「「詩は飢えのために(変革のために)役立たない」とか「詩は飢えた子供のためにかかれるべきだ」などと答える人には、その両方に、少しばかり苦っぽい笑いをもらしてもいいという気がする。苦い笑いもまた、ここではどうやら両側に裂かれ、裂かれた顔こそ、どこまでいってもいまのわれわれの最上の顔というわけらしいが、ところで一体、文学(詩)は変革に役立たないとはどういうことだろう。」「やはりわれわれは、あくまでじぶん自身の内なる飢えた子供のためにだけ書く。そして、そうすることで、私はいずこかの飢えた子供の存在も発見しようとするのである。」
どのような命題であれ、政治的なテーゼであれ、厳しく内面化しないで発言することは決してなかった黒田さんを、最もよく知ることができる一文で、今なお咀嚼したい一篇だ。

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