見出し画像

ロマン派から20世紀へ プログラムノート

ロマン派から20世紀へ~抒情の変遷~
2023年4月8日(土) 原田の森美術館401室
プログラムノート
秋月 舞
 ショパン 幻想曲
 スクリャービン ワルツ
 ガーシュイン 2つの調のための即興曲

志賀俊亮
 アルベニス トゥリアーナ
 ラヴェル 古風なメヌエット
 ガーシュイン 3つの前奏曲
 ムソルグスキー 展覧会の絵より

 ロシア、ポーランド、フランス、スペイン、アメリカと、ユーラシア大陸から大西洋を挟んでアメリカ大陸まで、広い地域をカバーする選曲となりました。19世紀から20世紀という時代に、彼らはそれぞれ時代の波に翻弄され、その中で旺盛な創作活動を見せました。
 楽曲と作曲家の人生、社会状況を極端に結びつけることは安直であり、創造の本質を見失うことにつながりかねませんが、歴史と社会を参照することによって、作品の側面的な魅力を照射できることがあるのではないでしょうか。
 1830年のロシアに対してポーランドが蜂起、翌年ロシアによるワルシャワ侵攻からポーランドの敗北を受け、21歳のショパンは練習曲12番「革命」を残しました。彼はロシア政府発行の旅券を受けることを拒み、生涯無国籍者としてパリで生涯を閉じたといわれています。
20世紀に入り、ラヴェルは虚弱体質だったにもかかわらず第一次世界大戦(1914~1918)に志願、車輛の運転手という任務に就きます。同戦ではラヴェルの多くの友人が命を落としました。その一人ひとりのために「クープランの墓」を作曲しています。
 ムソルグスキーは、1860年代のロシアで、農奴解放による地主貴族階級の没落を経験しています。そのためだったかどうか、重度のアルコール依存症に苦しむことになるわけです。
 スクリャービンが晩年に傾倒する神智主義、ロシア象徴主義は、彼が元来持っていた輝かしいロマンチシズムが、中西欧とロシア帝国の世紀末及び革命に向かうひずみによって、肥大化したものかもしれません。
 アルベニスが活躍していた頃、祖国スペインはアメリカとの戦争(1898年)に敗れ、キューバ、フィリピン、プエルトリコを失いました。パリに住みながらスペインを “mi morena” (小麦色の肌を持つ私の恋人)と呼んで愛していた彼にとって、スペインは落日の美しさを持った対象だったのでしょうか。
 ガーシュインが生まれたアメリカ合衆国は、第一次世界大戦をきっかけに世界の中心と躍り出たと言われています。彼が活躍した1920年代に繁栄を極め、さまざまな矛盾を抱えながらも、両大戦の狭間にあって「狂騒の20年代」、ジャズ・エイジと呼ばれていました。ガーシュイン自身、数々のヒット曲と同時に、「ラプソディ・イン・ブルー」「パリのアメリカ人」と名作を量産し続けた20年代でした。
 創作は個人の営みであると共に、時代の空気、同時代の人々との関係を色濃く反映するものでしょう。これらの作品を通じて、現在への視座を捉え返すこともできるのではないでしょうか。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?