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日本にあってフィンランドにない「助け合い」

今日はフィンランドにしばらく暮らしていて子育てもされている日本人の方と学食でランチをした!学生をしながら仕事もしながら子育てもされている方なのだけど、そんなスーパータフな女性からフィンランドでしばらく生活して感じていることを聞いてみて、フィンランドの福祉の考え方がまた少し変わった気がする。

フィンランドっていうと福祉がものすごく充実してて、子育てとか病気になったときとか、困ったら国が手厚く支援してくれる、みたいなイメージがあった。それはおそらく事実で、だからこそ国民も政府のことをものすごく信じているし、高い税金を払うことにも抵抗がないんだろうなっていうのは生活していて感じる。
でも今日その方の話を聞いてなるほどなって思ったのは、そういう支援があまりにもシステムとして確立されすぎているせいでむしろ
「そのシステムがあるんだからそれを使いなさい」
っていう雰囲気が強くて、人間的な助け合いがすごく少ないってこと。

例えば子育てで困ってるとき、本当に必要としてるのは子育てそのものだけじゃなくて子育てをしている母親の精神的な支えなのに、ベビーシッターを使うのが当たり前で周りにいる人はあんまり助けてくれなかったんだって。

あとこれは私自身の経験だけど、こっちで風邪を引いて病院に行こうとしたとき、まずオンラインで簡単な診療を受けて、それで本当に医療が必要と判断されたら病院を紹介されるっていう流れで。そのときは、
「日本では直接病院にすぐ行けるのが、フィンランドではこんなにステップを踏まなきゃいけないのか…」
っていう壁を感じて、結局病院に行くのを諦めたんだよね。病院に行く意味って本当に治療を受けることだけじゃなくて、ちゃんとお医者さんに看てもらったっていう安心感を得ることも少なからずあるんだろうなと思うんだけど(それを医者にさせるべきかはまた別の議論なんだろうけど、現状日本にいたら「まず間違いなく『安静にしてください』って言われるだろうな」と思いながらも病院に行く状況を考えれば、安心材料的な意味合いは少なからずあると思う)、あまりにも支援がシステム化されていくとそういう精神的というかインフォーマルなサポートが気づかないうちに失われていくんじゃないかなと思った。

前に別の方のブログで、
"フィンランドは「公助」と「自助」が強くて、反対に「共助」が少ない国"
っていう考え方を読んだとき、そのときは「ふ〜ん」とくらいに思ってたんだけど、今日の話を聞いてなんかすごく腑に落ちた気がする。
”個人が自立するのがまずは前提、でも困ったらちゃんとサポートできるシステムをちゃんと用意してありますから使ってくださいね、以上。”
みたいな。そしてみんながそのシステムを信じてるから「お隣さん同士の助け合い」みたいなのはあんまり存在しないけど、そのシステムはきちんとシステム化されてるがゆえに無機質で、本当に必要な精神的なサポートを提供するには不十分というか。フィンランド人はシャイであんまり人と関わろうとしない、みたいな話もよく聞くけど、身近な人同士の関わり合いが少ないことと、このシステム化されたサポートのあり方は少なからず関連している気がする。

そしてコミュニティ(ときにしがらみ)的な世界観が強い日本にいた私からすると、精神的な助けが必要なときはちょっとドライ過ぎじゃない?とも感じるなとも思った。これまでは
「フィンランドの福祉ってきちんとシステマティックに動いてて、政府がちゃんとみんなの面倒見ててすごいな〜!」
って純粋に思ってたけど、そう考えると案外その弊害もゼロじゃないのかもなって感じました。

フィンランドの福祉制度にはすごく興味があったんだけど、(ありがたいことに)あんまりそれにお世話になる機会がなくて
「実際のところどうなんだろう?」
ってずっと思ってたから、実際にそれを使った人から話を聞いて色々気づくきっかけをもらえて良かったです。

(追記)
このまま書き続けるとごちゃごちゃしそうだからちょっと別立てで追記。
そういう意味では、アールトのキャンパスがあるオタ二エミっていう場所は「共助」が活発な特殊地域なのかもしれないと思った。もちろん住人がほぼ学生だけだからなんだろうけど、学生同士でいらないものを売り買いするチャットグループがあったりとか、私がこの前寮で家入れなくて困ってたら全然知らない人なのにめちゃくちゃ親身に助けてくれたりとか。一緒にいることを強制されるわけじゃないんだけど、必要なときはちゃんと助け合いができるような機能が存在してる気がする。なんかこういう、ドライながらも心強い居場所として私はこのキャンパスでの生活が好きだなって思います。

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読んでくれてありがとう!Kiitos!


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