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題名『十号線のUターン』

僕は十号線さんに一目惚れをした。
二週間 雨が続いた三月の月曜日。憂鬱さをギュウギュウに詰め込んだバスの優先席で、彼女は音楽を聴きながら歌詞を口ずさんでいた。僕は、その唇の動きに目を奪われた。
「もっと奥に詰めて下さい、もっと奥に もっと奥に」運転手さんのアナウンス。サラリーマンと別のサラリーマンの隙間に、彼女を見つけた、その瞬間 背筋に電流が走ったみたいに体がカチコチになって一歩も動けなくなってしまった。美しかった。我が物顔で。けれども未成熟の少女で。角度を変えると蠱惑的な女性に変身する。スポットライトを浴びた舞台女優みたいだ。他の奴らはその瞬間 脇役に成り下がって、彼女の輪郭だけがやけに明るく見えるような。イヤホンの赤が前頭葉を焼き焦がす。美しい以外に彼女をどう表現すれば良いんだろうか。そんな言葉が果たしてこの世にあるのか。

「降りないの? 終点だよ」

彼女の少し日焼けた瞳が、僕に向いていた。バスはいつの間にか新しい街に着いていた。僕が知らない街だ。

彼女の本当の名前を僕は知らない。高校のクラスメイトはみんな陰で、十号線さんと呼ぶ。彼女が十号線沿いのクリーニング屋に住んでいるからだと、長期観察で理解した。成績はいつも上位、特に科学は。スポーツも出来る。球技はお手の物。高校カーストの上位に君臨する運動部の奴らが、昼休みに僕に用がある時はからかいに来た時、十号線さんに声をかける時はフットサルに誘う時だ。
「お父さんがスカウトだったの」僕の古典のノートを写しながら十号線さんが何気なく答えた。
「お父さんとの会話はボールを蹴ってる時だけ。海外出張が多い人だからさ、家には女を残して仕事ばっかり。私あんまりお父さんと話したことないの」
嫌い?
「嫌いよ」
でもUターンは上手だよ。
「なにそれっ」十号線さんが白い歯を見せて笑う。勢いよくハイハットを叩いた時のような、気持ちのいい笑顔。僕は笑われた事が恥ずかしくて、でも嬉しくて。身振り手振りを交えながら、彼女がフットサルの時に良くやる身体を回転させる足技について説明した。僕は勝手に十号線のUターンと呼んでいた。どうやら正式な名前が他にあるらしく、「変なの」と、ずっとケラケラ笑われた。笑い過ぎてノートに涙を落とした。運動部の奴らが僕を嘲笑うのとは違う、彼女の笑顔。同じ「笑われる」なのに、悪い気はしなかったんだ。

彼女はロックを良く聴く。「ZAZEN BOYS」「きのこ帝国」「ELLEGARDEN」「tricot」その4つがお気に入り。猫より犬が好き。リプトンのミルクティーが好き。深夜に布団の中で、少し騒がしくてハッピーエンドな映画を見ることが好き。
好きな色は「赤だよ」
僕は銀だ。
「どうして?」
銀色はいつも2番目だから。
本は「たったひとつの冴えたやりかた」「おもいでエマノン」「イリヤの空 ufoの夏」
SFが好きなの?
「本は退屈しないわ」
それから僕らは本を貸し借りするようになった。次の日から意気揚々と駅前の本屋で、十号線さんが好きそうな小説を読み漁った。イケてる本があれば彼女に教えたかった。僕の小さなエゴだ。でもそれだけ、放課後の誰もいない教室で古典のノートを写す時間と、本の感想を言い合う時間が僕の全てだったんだ。まあ僕の全て=彼女の全てではないことは分かっていた。だからそれ以上の関係に進展する事もなかった。
5ヶ月経っても、僕と十号線さんが会話した時間はほんの数時間に満たなかった。彼女はクラスで浮いてしまう程 男子からも女子からも尊敬される人間で、僕は「読書陰キャ、ノート貸せよ」と試験前の便利屋としてクラスの端で生きるドブネズミみたいな存在だった。上記の会話は、ダイジェストのように楽しかった時間を切り取ったものに過ぎない。

僕は、人と会話する事が嫌いな訳じゃない。誰かから嫌われる事を恐れているんだ。ずっとそうだ。人に嫌われたくない、否定されたくない。そういう発作が始まると強迫観念みたいに恐怖が脳みそを支配する。怖くて動きたくない。何もかも投げ出してしまいたい。どうしてこんなに恐怖を覚えなくちゃいけないんだ、やめたい、死にたい。人と比べて、自分が劣っている所ばかりを探してしまう。僕は自分が嫌いなんだ。ネガティブな自分も、ネガティブな自分が嫌いなのにマシになろうとする努力をしない自分も。ネガティブを、あまつさえ個性と言い張る自分も。周りが見えない主観的で臆病な隠キャな自分も。吐き気がする。八つ当たりのように恨めしいと思う時もあった、自信満々な運動部の奴らを見ていると特に。「いいんじゃない? 自信満々な人間を全員殺してやろう」彼女が屋上の手すりに背中を預けながらそう口にする。冬の薄雲に橙色が差す放課後。一つ結びにした十号線さんの後ろ髪が風になびく。僕はその光景を一生忘れない。
「私もお父さんを殺したいってたまに思う。お母さんが泣いている夜を見るとね、そう思うんだよ。どうしてなんだろうって。この世界を滅ぼして幸せな家族としてやり直せないかなって。そう強く思う夜があるんだ。誰もが一度、負の感情を強く抱く夜がある。怖くて眠れない日がある。不安が頭の中を支配して、明るい未来が見えなくなっちゃう。…でもさ。例えば、別の次元から怪物が現れて、そいつが世界を混沌に貶める。そうすれば些細な悩みなんか無くなると思わない?どう?」
良いと思う。
「ふふ。でも、そう うまくいかないよね。別の次元を開くためには凄いエネルギーがいるし」十号線さんが笑う。「本当は大切な人に一言だけ、大丈夫だよって言って欲しいんだ、それだけなんだ」寂しそうな横顔。僕は黙って見つめる事しか出来ない。何か言うべきだと馬鹿でネガティブな僕でも分かった。喉の奥に熱い何かが迫り上がって来て。早く吐き出さなきゃって思って。でも結局何も十号線さんには言えなかった。6時のチャイムが虚しく響いた。

七日後、十号線さんは学校に来なくなった。
担任の先生曰く「お父さんが亡くなったそうです」。十号線さんは転校する。結果だけを簡潔に告げられた。
そうか、転校か。
僕は納得することにした。
十号線さんが居なくなってもクラスの日常は変わらない。「おい読書陰キャ、掃除変わってよ」運動部の奴らが僕の肩を強めに叩く。僕の詰まらない人生は変わらない。『my life is shit』「ELLEGARDEN」がそう歌っていた。間違いない、僕の人生はクソだ。

僕はただ、彼女に会いにバスの終点に向かう勇気がなかった。だって彼女は父親を愛していたから。彼女が愛していたのは僕じゃなかったから。怖いんだよ。何を言えば正解なのか分からないんだよ。正解じゃないことを言ったら、きっと彼女に嫌われる。正解じゃない答えを言って、許される人間じゃないんだ僕は。運動部の奴らとは違うんだ。僕は、気がつけば彼女を1つの思い出として処理しようとしていた。

翌年の八月。母が癌で亡くなった。
荷物を整理していた時、化粧台から小さな手紙が見つかった。詳細は割愛して抜粋する『…本音を書くと死ぬのが怖いです。永遠にあなたに会えないのが怖いのです。…けれども、あなたを愛しています。いつも頑張っている 健気で一生懸命な貴方を知っています。好きなことをしている時のキラキラしている目が好きです。死は怖いです。けれども、あなたを愛していると言えるのです。…母より』この手紙を見つけた時、僕は最初、自分の心が冬の湖にゆっくりと端から浸かっていくような寒気にも似た悪寒を覚えた。何度も読み直す内に、母の遺書を理解しようとしている自分がいることにも気が付いた。母は『死』を怖いと書いた。けれども『愛してる』。おかしな文章だ。そこは逆接にはならない。『死』は怖い、けれど『愛してる』。まあ親って生き物は子供を過大評価するし、母らしいなと無理矢理納得して、僕はまた思い出として処理しようとしていた。

人生は、トランプを積み上げた山札のようなものだ。人生における選択は、場に並んだトランプを1枚引き、山札に積み重ねる行為である、と僕は考える。その時、どんな絵柄のどんな数字のカードを引いたかは、引いた本人にしか分からない。時々他人の山札のカードを1枚見ることができる、それはその人が苦悩の末に選んだカードであり、その人が経験した出来事や、その瞬間に覚えた感情が垣間見える。その美しさに僕は心を震わせる。母の死は、間違いなく引かされたカードであり、僕の人生という山札に重ねられた貴重な1枚であった。

『死』という恐怖は、『愛いしてる』で塗りつぶせる。日が経っても、処理しきれない母の遺言が。その一文が強烈に残った。

翌日。停電が起きた。
街中の電気が九分間だけ消えた。
あの不夜城なるぬ不夜塔であるNEO TOKYOタワーも九分間だけ闇に包まれた。「これはある種のテロ行為であり…」ニュースキャスターの抑揚のない声。連日、どのチャンネルをつけても停電のニュースばかり。
クラスのみんなは平然と学校に登校する。
僕は違った、背筋に電流が走ったような感覚を覚えた。ロックミュージックの途中で、一瞬だけ音が抜かれる感覚と酷似している。音と音の狭間、九分間の空白。イレギュラー。いつの間にか脳内で処理しきれなかったエラーが積み重なって、走馬灯みたいに記憶が溢れ出す。

放課後の記憶、「別の次元を開くためには凄いエネルギーがいるし」十号線さんが寂しく笑う、その横顔。僕の期待は数ヶ月前の失敗を忘れかけ、むしろ忘れ去ろうとしていた、自らに。でも脳裏に焼き付いて離れない女の子がいるんだ、あの赤いイヤホンをした女の子は「好きな色? 赤だよ」。
「いいんじゃない? 自信満々な人間を全員殺してやろう」
彼女が笑うと金木犀(きんもくせい)の香りがする。「クリーニング屋で流行りなんだ、金木犀の香り。君は好き?」
「古典は嫌いだよ、だって退屈なんだもん」僕は急いで鞄をひっくり返した。僕の古典のノートには十号線さんの涙の跡があった。

行かなきゃ。

走り出した。

新しい街に行くバスに乗り込む。
新しい街は怖い。
僕は十号線さんの電話番号も知らない。
知っているのは終点に住んでいること。それだけ。

終点の十号線沿いで降りる。通り沿いには一軒のクリーニング屋がある。他は何もない。殺風景だ。乾燥機が壊れたのか、羽毛布団の羽が換気扇から勢い良く溢れ、まるでクリーニング屋にだけ雪が降っているみたいだ。閉じたままの自動ドアを無理やりこじ開ける。羽毛が室内で吹雪く。白に包まれる。その中を強引に突き進む。きっと彼女がいる。彼女に会いたい。
会わなきゃいけない。
会って言わなきゃいけない。
「本当は大切な人に一言だけ、大丈夫だよって言って欲しいんだ、」
大丈夫だよ。
僕が言いたかった一言だ。
それが正解か?
んなこと、どうだって良いじゃないか。
正解か不正解か、今は重要に思わなかった。

脳を支配する恐怖に吠える。うるせえ。
僕は、彼女の大切な人じゃなくていいんだ。
でも彼女は僕の大切な人なんだ。

「十号線さん!」

彼女の悲鳴がクリーニング屋の地下から聞こえた。僕は転がるように階段を降りた。
そして地下に広がる光景に目を見張った。地下は、まるでSFの研究所のように大小様々なモニターで溢れていた。見た事もない太いコードが複数 伸び、僕の背丈以上に大きな機械で埋め尽くされていた。クリーニングの機械じゃないことはすぐに分かった。それを正常に稼働させるためか、室温はかなり低めに設定されている。吐く息が白くなる。点滅する蛍光灯。目が痙攣しそうだ。
まさか。本当に、別の次元から怪物を…。

甲高い怪物の咆哮が鉄扉の向こう側から聞こえた。
推測は、確信に変わる。

鉄扉の前で僕は立ち止まる。彼女はこの扉の向こう側にいる。
でも扉はパスワードを打ち込まないと開かない。

くそ。
なんだ。
僕は彼女の誕生日も知らないじゃないか。彼女の父親の名前は? 分からない。
好きな色、違う。
好きなバンドの名前、違う違う。
彼女の好きな小説のタイトル、違う違う違う。
彼女の愛しているものはなんだ。父親だ。たぶん父親なんだ。お父さんが好きなんだ。だから彼女はサッカーが上手なんだ。
あんな上手に回って、ディフェンスを振り切って、カッコ良くて……。

嗚呼

1つのキーワードが僕の頭の中に浮かび上がる。
全身に震えが走る、そんな筈はない。
でも、そうかもしれない。同時に二つの感情がぶつかり合って、頭の中でスパークする。
興奮で脳みそが溶けそうだ。緊張で唾を飲み込んだ。まさか。
震える手を押さえ付けパスワードを打ち込む。

『Uターン』

扉が開く。
灰色の怪物がいる。無数の牙と鋭利な爪を持つ怪物。「エイリアン」と酷似している。
四畳半の空間。壁に亀裂がある。夕焼けと同じ色をした光が亀裂から溢れている。別の次元に続く『裂け目』だ。
「十号線さん!」。怪物の獲物は、端に追い詰められた十号線さんだ。理解できない。理解しなくて良い。出来る事をするんだ。そうだろ。

愛は、死の恐怖すら越えるんだ。

怪物の甲高い咆哮。僕は十号線さんの前に立つ。鉄パイプで怪物の頭を殴り付ける。肉を叩いた生々しい感覚が伝わってきた。手がイカれたように震えてる。前頭葉が燃え上がりそうだ。それでも僕は怪物の前から引かない。恐怖には負けない。

「、どうしてここに」怯えた十号線さんの声。
「だって、本がないと退屈だろ…? 十号線さん」

「…その、十号線さんって…、私のこと?」そうだ、僕は彼女の名前を知らなかった。

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