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20) 異世界に迷い込んだ僕等がしなければならないこと

どうやら僕等は異世界に迷い込んでしまったようだ。だって、僕等はこの世界で何をしていいかわからないからだ。

だからなのだろうか、昔から冒険物語が人気だ。ジュール・ベルヌの「宝島」に始まって「ワンピース」に至るまで、海を渡って冒険の旅に出る物語が人気を博し続けている。

冒険の目的は、「きっとあるであろう何か」を探しに行くことであり、その「きっとあるであろう何か」を見つけることで「満足できるようになる」ことだ。

そして、僕等は、何をしていいかわからないこの世界に放り投げこまれて、この世界で「満足できるような何か」を探しているといっていい。

だから、僕等は普通にこの世界を生きるのでさえ冒険をしているということになる。

僕等はいつも目には見えない何かを求めて生きている。その眼には見えない何かを知りたくて冒険をしているといっていい。

ならば、僕等は一体何を求めているというのだ?

一体僕等は、何を求めて生きているんだ?

結婚相手? 生涯できる仕事? 安定? ドキドキ? ワクワク? 生きる意味? 

でも、結婚相手が見つかったからといって、それがゴールではない。生涯をかけて出来る仕事が見つかったからといって、それがゴールではない。ドキドキもワクワクも一時的なことでしかない。

生きる意味? それは人それぞれ。定義することはできない。

そもそも、こんなことを考える「自分」っていったい何なのだ?

‥‥‥‥シンキングタイム‥‥‥‥


どうやらこの世界では「欲求を満たしたいという思い」が生きることの原動力になっているらしい。

「欲求」はどんなときでも湧いてくる。そして、この「欲求」を満たしたいという思いが人を動かしている。

もし、僕等が何もせずにただ存在するだけで満足できているのなら、その場を動こうとさえ思わないだろう。ただそこにじっとしているのに違いない。

でも、この世界は、どうやらじっとしているだけで満足できる世界ではないようだ。なにやら「満足できる何か」を見つけないといられない世界のようなのだ。

だから電車の中で、みんなスマホを見る。なぜなら僕等は何もしていないことに満足できないからだ。

そう考えると、大海原に出て冒険するのは楽しいのかもしれない。身体の全部を使って何かを探していたほうが満足感を得られると思う。

探すという行為が、満足感を与えてくれるといってもいいだろう。もちろん冒険した先で、何かを見つけることができたときにも満足感を得ることができる。南国の島で、見たこともないフルーツを味わえたらきっと満足できるだろう。

「探す」と「見つける」はコインの裏と表だ。探さなければ見つけることができない。

そして、僕等はこの世界で、何かを探さないといけない仕組みの中に組み込まれてしまっている。

これが僕等が異世界に迷い込んでいまったという理由だ。

猫が猫じゃらしに反応してしまうように、僕等の本能の中に何かを探すという習性が組み込まれている。

瞑想をするのだって、坐禅を組むのだって何もしていないようにみえるけど、そこにもれっきとした目的がある。瞑想することで、自分を「無」にするということでさえ、そこに「欲求」が存在しているのだから。

結局、僕等は何をするにしても「欲求」があり、それを「満たす」ことで満足できるようになっている。

でも、得た「満足」はすぐに消えてしまうから、また次々と生まれてくる「欲求」を満たしていかなければならない。

どうやら、これがこの世界のルールのようだ。

僕等は、欲求を感じそれを満たし続けることを延々と繰り返していく。

習性として、欲求を感じそれを満たす、ということを死ぬまで繰り返さなければればならないようだ。

であるならば、それを楽しんでいった方がいいだろう。

「自分」という存在が、本当は何を求めているのか全くわからないけど、少なくとも、これから大冒険に出ていくような気分になって、「それ」を探しに出た方が楽しいように思う。



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