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放浪者が調和の世界に還るとき

よく使われる比喩ですが、我々は指のような存在です。


指そのものを注目して見ると、それぞれに個性も異なりバラバラに存在しているように見えます。

しかし、指ではなく手としてみたならば、我々はしっかりと繋がったひとつの存在です。

しかし、指は手の一部として同じ存在であるものの、親指には親指の、人差し指には人差し指の、中指には中指の、薬指には薬指の、小指には小指の役割があります。

5本の指それぞれが役割を果たすことで、手は手として存在できています。

小指には親指の役割を果たすことはできません。

中指が薬指の役割を果たすことはできません。

でも、小指は小指の、中指は中指の役割を果たすことで、手としての機能を維持することができています。



我々の身体の一つひとつの部位も、一つひとつが「私」という存在のためにそれぞれの役割を果たしています。

個は全であり、全は個です。

我々も同様に、別個の存在でありながらも大きな存在の一部として生きています。

我々一人ひとりは、個人を生きると同時に全体のために生きているのです。

しかし、残念ながら全体のために生きているという感覚が、我々にはありません。

では、我々にとっての全とは何なのでしょうか。

どうすれば全を意識できるようになるのでしょうか。

木や水や虫といった自然は、全体の循環の中でそれぞれの役割を果たしています。

ただそういった自然は自分の役割とは何なのかと考えることはありません。

そもそも自然には「自分」という概念がありません。

ただ淡々と全体の一部としての役割を果たしています。

その一方で、我々は「自分」という存在を認識できているものの、全体の中での役割を認識することがきずにいたりします。

人は誰もが、「私はどうして生きているんだろう?」、「何をするためにこの世界に存在しているのだろう?」と考えたりするものです。

我々は、そういった考えを持っているのにもかかわらず、存在としての役割を認識できていないのです。

この地球上において、人間だけが唯一「自分」という認識を持っていながら、全体の中での役割を認識できていない、そんな存在なのです。

我々人類は、この地球においていわば放浪者です。

我々は、何かをしたい、誰かの役に立ちたい、自分にしかできないことをしたい、といった欲求を持っています。

こういった欲求を持っていながら放浪するということは、ある種の苦行をしているようなものなのです。

こういった状態を、身近なことにたとえるなら、みんなが働いている職場で、ひとりすることがなくただ佇んでいるような状態です。

何をしていいか分からずに、ただ「好きにしてていいですよ」と言われている状態といっていいでしょう。

そういった状態におかれたとき、我々は何をするかというと、自分にできることはないかを探し始めたりするものです。

他の人がしていることを観察して、自分が出来そうなことはないかと探すものです。

そういった視点で、あたりを見回わしていると、ふと一人で大変そうにしている人がいたとします。

そこで、「そうだ!あの人を手伝おう」と思い立って、近づいていって声を掛けます。

「手伝いましょうか」と。

すると、その人は笑顔でこういいます。

「ありがとう、助かります」と。

そうやって大変そうにしている人に手を貸すことで、職場で一人佇んでいた「私」は、何もすることのないひとりの存在から、役割を担う一人の人に変化することができるようになります。

することもなく放浪していた「私」が、他者を手伝うことで全体の一部として役割を担うことができるようになったのです。

我々は役割を得ることで「喜び」を感じるものです。

「私」という存在が全体の中の一部の役に立つとき「喜び」が自然と生まれてくるものなのです。

生命としての内側から湧き上がってくる「喜び」は、全体の中の一部として役に立つことなのです。

そして、自分の役割を見つけて、喜びを感じられるようになったとき、放浪の苦しみから解放されるようになっていきます。

では、我々は人類としてどんな役割を担っているのか。

人類として、この地球で何の役割を果たせばいいのでしょうか。

今回の震災には、我々の存在としての意味を、問いかけられているような気がしました。

地球という全体の一部としての我々の役割は何なのかと。

人類は、地球という全体の一部として役割を果たすことができずにいる存在のように思います。

我々は地球というシステムの中で、何をすべきかいいか分からない放浪者なのです。

ならば、我々が地球の一部として何をすればいいのか。

そこに明確な答えはありません。

いや、正確に言えば、我々はこの地球で何をすべきかということをすっかり忘れてしまったのです。

我々の祖先は、おそらく人類としての役割を、ちゃんと認識していたはずです。

であるならば、放浪者である我々が、今何をすればいいのかというと、まずは観察することなのかもしれません。

自分には何ができるのかを見回して観察して、人という存在として出来ることはないかを見つけ、それを行っていくことが、今すべきことなのかもしれないのです。

答えを見つける鍵は調和の中にあります。

自然は調和で成り立っています。

我々は今、調和からはずれた放浪者です。

しかし、我々が自然という調和の中に入って行くことができれば、そこに人類としてのこの地球での役割を見つけられるようになるようになるでしょう。

循環する自然を観察し、自然の中に入って行くことができたとき、我々は我々にしかできない役割を発見できるようになって、喜びを感じられるようになるでしょう。

調和の取れた世界は、いわば「0」の世界です。

循環する世界は円を描く「0」の世界なのです。

そういった、「0」の地点から我々のでできることを見つけ出だすことができれば、人類としての役割を見つけることができ、大きな喜びを感じられるようになるでしょう。

我々、人類が放浪者になってしまったのは、調和の視点を喪失してしまったからです。

調和の視点を見失ってしまったがために、「喜び」を見失ってしまったのです。

人類だけ「エゴ」を暴走させてしまったために、地球という惑星の調和から逸脱してしまい、その結果、放浪者となってしまったのです。

我々は今、調和とは何かを観察して思考し、自分の中に取り入れていかなければならないのだと思います。

個人というエゴの視点で考えるのではなく、調和という全体の視点で物事を考えてみる。

そういった習慣を身に付けることが、今の我々のすべきことのように思います。

これまで人類が除外してきた自然摂理という調和を、新たに見つめ直して気づきを得て、それを取り込んでいく作業が必要なのかもしれません。

今年は、ある意味では、強制的にそういった視点を持たされるよう仕向けられる気がします。

エゴでは、もう上手く成り立たない、そんな時代の始まりが2024年のようなきがします。

1月1日の出来事をきっかけにそんなことを考えさせられたように思います。




今年はしばらく、更新の時間を朝にして、書のつぶやきと、3000字程度の記事を一日おきにupしていこうと思います。

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