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ドストエフスキーの土壌主義―『作家の日記』より⑫―

1877年4月、ロシアはオスマン帝国に宣戦布告し、ついにトルコとの間で戦端が開かれた。

『作家の日記』1877年5月・6月号(合併号)は、全体として、時事的な政治・外交に関する評論に多くの紙数を割いている。
この中で、ドストエフスキーは、対トルコ戦に直面する自らの愛国的心情を吐露しつつも、それにとどまらず、ヨーロッパ各国の政治情勢や、その歴史的・地政学的な相互関係について、より広い視野で、現状を分析し、今後の展望を論じている。
それらのドストエフスキーの議論は、古代ローマ以来の歴史を踏まえた詳細かつ具体的なものであり、西洋史に造詣の深い読者にとっては、おそらく大いに興味深く、示唆に富むものではないだろうか。

残念ながら、筆者は、西洋史の素養がはなはだお粗末であり、基礎的知識にすら欠けるため、これらのドストエフスキーの複雑な議論を十分に理解し、その妥当性や含蓄を正当に評価することができない。

そのような号をあえてここで取り上げようとするのは、当時のヨーロッパの政治情勢に関する議論の中に、ドストエフスキーの宗教観の一端が現われているからである。

筆者は、以前の投稿で、ドストエフスキーにロシア選民思想あるいはロシア・メシアニズムと呼びうるような強固な信念が存在していたこと、そして、その信念の中心にロシアが民族として保持する正教があるらしいこと、を論じた。
そして、「ドストエフスキーにとって、ロシア正教の宗教としての優位性の根拠は果たしてどこにあったのか?」という極めて素朴な疑問を提出した。

5月・6月号の一連の文章は、この素朴な疑問に、若干なりとも、かかわる部分があると思われたため、そのままやり過ごすことができなくなってしまったのだ。

同号第二章以降の議論から読みとれることは、ドストエフスキーが、ヨーロッパの宗教(キリスト教)の分布における三極構造についての独自のイメージを持っていたらしいということだ。
その三極とは、ローマ・カトリック、正教及びプロテスタントであり、それらを体現する国家が、それぞれフランス、ロシア及びドイツであった。

*   *   *

ドストエフスキーによれば、古代ローマは「人類の全世界的統一の理念を生み出し、初めてこれを全世界的帝国という形式において、実践的に遂行しようと」したが、この「全世界的帝国」という形式はキリスト教の前に崩壊し、一方で「全世界的統一」という理念の方は「キリストにおける全世界的結合」という新しい理想にとって代わった、とされる。

……この新しい理想は、東方的なもの、すなわち純精神的な人間の結合という理想と、西欧的なもの、すなわち東方のものと正反対のローマ・カトリック的、法王的なものとに、二分した。この西欧的、ローマ・カトリック的理念の具現は、キリスト教的・精神的な根源を失わず、かつ古代ローマの継承物をもそれに混合して、自己流に行われたのである。ローマ法王の宣言によると、キリスト教とその理念は、土地と人民を全世界的に領有しなくては、――しかも精神的にではなく、国家的に領有しなくては、換言すれば、ローマ皇帝ならぬ法王を元首に戴(いただ)く新しき全世界ローマ帝国を、地上に実現することなしには、おのれ自身、すなわちキリスト教とその理念をも実現することができない、というのである。<中略> かような次第で、東方の理想にあっては、最初キリストにおける人類の精神的結合があって、そこから必然的に生ずる国家的・社会的結合が予想されるのだが、ローマ的解釈によるとその反対で、初め全世界的帝国なる形で、堅固な国家的結合を保証して、しかる後に、この世の帝王としての法王の支配下に、あるいは精神的結合を生じようというのである。(岩波文庫版『作家の日記』(五)、一八七七年五月・六月、第三章。米川正夫訳、以下同じ)

キリスト教の東西分裂の時期は一般的に11世紀頃とされている。
ここでは、教会分裂の歴史的な経緯に立ち入ることはできないが、上の引用は、分裂後の両教会、すなわちローマ・カトリック教会と東方正教会の本質的差異についてのドストエフスキーの理解を端的に示すものであると考えられる。
重複を承知で筆者なりにあえて整理すれば、そのポイントは、以下のようなものだ。

① キリスト教の理念(理想)とは人類の全世界的な結合である。この理念自体は、東西両教会とも変わるものではない。

② ローマ・カトリックと東方正教会との差異は、このキリスト教の理念のうちに含まれる人間の「精神的結合」と「国家としての統合」との間の時間的あるいは因果的な順序に存在する。

③ ローマ・カトリックは、「国家としての統合」が不可欠な条件として「精神的結合」に先んじねばならないと信ずるのに対して、東方正教会においては、まず「精神的結合」があり、その結果として「国家としての結合」が自ずと生ずると考える。

あくまでもドストエフスキーの解釈であるが、ここから筆者が読みとるのは、次のようなイメージである。

ローマ・カトリックのもとでは、信徒たちの信仰は、まず政治的権力の奪取及び保持のための「手段」として結集されなければならない。これに対して、東方正教会においては、信仰はそれ自体が「目的」であり、そもそも国家権力を超越したものである。

そして、ドストエフスキーは、フランスこそがローマ・カトリック世界の盟主であると考える。上記の引用に先立つ文章中に次のような一節を見いだすことができる。

……フランスは、たとえ法王はおろか神様すらも信仰する人間が、ただの一人もいなくなったとて、やはり主としてカトリック教国であり、いわばカトリックの代表者であり、その旗印であって、その状態はきわめて長く、信じられないほど長く持続し、フランスがフランスでなくなって、何かほかのものに変ずるにいたって、あるいはようやくやむかもしれないのである。そればかりか、フランスでは社会主義すらもカトリックの旧套(きゅうとう)によって、カトリック的組織と風格をもって始まるに相違ない、――それほどこの国はカトリック的な国なのである! ……(同上、第二章)

なぜそのように言えるのか? 例によって、ドストエフスキーは「詳しく証明しない」と述べている。

一方で、東方正教会の盟主の座について、ドストエフスキーはあえて明言していないのだが、東ローマ帝国の滅亡後に、これをロシア帝国が継承したとする主張は、ドストエフスキーに限らずとも、少なくとも大方のロシア人にとって自明のことであったと思われる。

*   *   *

では、三極構造のもう一極であるプロテスタントについては、どのように位置づけるのか?

ドストエフスキーは、「プロテストの精神」は、有史以来のドイツが常に持っていた唯一の目的である、と述べる。

 そこで、ドイツはその間(古代ローマ帝国以来、引用者注)、二千年という歳月の間、いったいどういう関係にあったか? この偉大にして誇りの強い特殊な国民の最も特質的な、最も本質的な点は、有史世界に出現したそもそもの瞬間から、おのれの使命においても、国是においても、決してヨーロッパの極西部、すなわち古代ローマ的使命の継承者たちと、合流をがえんじないことであった。彼らは二千年の間ずっと、この世界に対してプロテストしてきたので、自分自身の言葉、古代ローマの理念に代るべき、厳格に方式づけられた自己の理想を表明しなかった(またかつて一度も表明したことがない)、にもかかわらず、心の中では、この新しき言葉を発して、人類を嚮導(きょうどう)しうるという確信を、常に抱懐しているのである。……(同上、第三章。強調部は本文では傍点)

ドストエフスキーによれば、ルターの宗教改革は、「プロテストの方式」の発見であり、遂行であったが、それは依然として否定的なものであり、「新しい肯定的な言葉」は未だ発せられていない。

そして、近代以降のヨーロッパ情勢のもとで、カトリックの盟主たるフランスへの対抗を至上命題とするドイツは、「新しい言葉を発しようと試みるよりも前に、自分自身の政治的統一を完了し、自分自身の政治的オルガニズムの成就」を優先しなければならぬことを悟った。

こうしてドイツは普仏戦争で勝利を収め、統一を完成させる。しかし、ローマ的理念自体が粉砕されることはなく、ドイツは、ヨーロッパ極西部を敵国として再結集させる唯一の旗印となるローマ的理念に依然として脅かされ続けている。……

非常におおざっぱ、かつ部分的な要約であるが、ドストエフスキーは、以上のような論旨を展開している。

だが、繰り返しになるが、正直言って、ヨーロッパ各国の歴史的関係に関するドストエフスキーの議論は複雑で私には手に負えない。
そのような筆者の理解力を超える議論をあえて紹介するのは、そこに、ローマ・カトリックとプロテスタントの関係に関するドストエフスキーの見解が窺われるからである。

すなわち、それは、両者の関係が、本来の宗教的・精神的な対立という本質から逸脱して、世俗的・政治的な闘争の関係に変容してしまっている、ということである。

*   *   *

以上の議論をまとめれば、ヨーロッパのキリスト教の三極構造のうち、ローマ・カトリックとプロテスタントの二つの極は、宗教的というよりむしろ政治的な構造であり、純粋に宗教的・精神的な構造は残る一極、すなわち正教のみである、ということになる。
おそらく、ドストエフスキーは、そのような宗教観をいだいていたように思う。

キリスト以来の純粋に精神的な本質を保ち続けている宗教は、ただ正教のみである。

であるとすれば、ドストエフスキーにとって、「ロシア正教の宗教としての優位性の根拠」は、まさにこの点にこそ存在したのではないだろうか。

そして、そのような正教の本質は、ほかならぬロシアの民衆の信仰の中に生き続けていることを、ドストエフスキーは繰り返し主張している。
そのことを、民衆から遊離して西欧化した知識階級(インテリゲンチャ)には、なかなか理解できない。

……民衆と決裂したこの「知識」階級の人間としては、無学な百姓が完全に揺るぎなく神の唯一性を信じ、神様はたった一人きりのもので、それよりほかの神様はないと思い込んでいると聞いたら、びっくりするに相違あるまい。ロシヤの百姓はそれと同時に、彼らの神であるキリストは父なる神から生まれ、処女マリアから像(かたち)を受けたということを承知し(ロシヤの民衆は誰でもそれを知っている)、うやうやしくそれを信じているのである。民衆と決裂したロシヤのインテリゲンチヤは、何よりもまず、なに一つ学んだことのないロシヤの百姓が、こんな知識を持っているという可能性さえも、決してみとめようとはしないだろう。(同上、第四章)

いったいそのような知識を誰が百姓たちに教えたのか?
この問いに対するドストエフスキーの答えは、きわめて漠然としたものである。

……彼ら(インテリゲンチャ)は、信仰の道における百姓の教師が土地そのもの、――ロシアの土ぜんたいである、ということも、この信仰が彼らとともに自然に生まれて、生命といっしょに、彼らの心に漸次固まってゆくということも、ついに理解できないであろう。……(同上)

「偉大にしてあたたかい端的な民衆の信仰」は、その一人ひとりの生命の誕生と成長に合わせて、ロシアの大地に育まれるようにして、自然と確立されていくものなのだ、そのように、ドストエフスキーは言う。

*   *   *

ここまで書いてきて、ドストエフスキーのこのような考え方は、「土壌主義」と呼ばれるものではないか、とようやく思い至った。

おそらく、ドストエフスキーの正教賛美、そして民衆崇拝は、いわゆる「土壌主義」の思想に関係づけられている。

この「土壌主義」(почвенничество, ポーチヴェンニチェストヴォ)については、ロシア語辞典に、の以下のような簡潔な説明がある。

土地主義(1850年代のスラヴ主義の一派, 宗教的倫理を基盤にпочва(土地)を体現する民衆と教養階級とを結合しようとしてドストエフスキーが提唱した思想)(『岩波ロシア語辞典』1999)

「土壌主義」は、作家の兄ミハイルが編集発行人となり、フョードル(作家自身)が事実上の編集長を務めたドストエフスキー兄弟による雑誌『ヴレーミャ(時代)』の創刊(1861年1月)にあたって標榜されたスローガンでもあった。

「ヴレーミャ」は文明と民衆的根源との合一、インテリゲンチャとナロードの結合をうたう。インテリゲンチャはロシヤの「土壌」に帰り、そこに根を張るべきだというのである。かつての西欧派とスラヴ派の論争のような ”内輪ゲンカ” は今ではのり超えなければならぬと主張する。この主張が「ヴレーミャ」のスローガンとも商標ともなった「土壌主義」であった。(内村剛介『人類の知的遺産 51 ドストエフスキー』講談社、1978)

「土壌主義」の精神は、晩年に至るまでドストエフスキーの思想を貫いていたのだ。
そのことを、われわれは『作家の日記』から読みとることができる。


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