加藤隆『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』
旧約聖書における神=ヤハウェの位置づけに興味があった。
旧約聖書は民族宗教であるユダヤ教の聖典である。そこで崇められている唯一神であるヤハウェは、そもそもユダヤ民族の神である。ヤハウェは、エジプトで囚われの民であったユダヤ人たちの脱走を成功させ(モーセによる出エジプト)、その後ユダヤ人たちを導き、カナンの地(パレスチナ)への侵入、定住を実現させる。そうであるならば、旧約聖書における神=ヤハウェは、パレスチナの土地に対するユダヤ民族の排他的権利を承認しているように思われる。
ところがユダヤ教の神であるヤハウェは、同じく一神教であるキリスト教、さらにイスラム教にとっても共通の「唯一神」であるとされる。ユダヤ教の中から発生したキリスト教はまだしも、イスラム教にとっての神もユダヤ教の神と「同じ」であるとすれば、この「神」とは一体何者なのだろう? パレスチナ人を含むイスラム世界の人々とイスラエルの人々がなぜ共通の神を信仰することができるのだろうか?
酒席でそんなきわめて素朴な疑問を口に出したところ、友人が紹介してくれたのが千葉大学名誉教授の加藤隆氏(聖書学)の著作であった。早速『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』(講談社現代新書)を読んでみた。
本書は「ごく普通のタイプの民族宗教であったユダヤ教がどのようにして本格的な一神教的宗教となったのか、その問題との関連でキリスト教の成立はどのような意味をもっているのか、についてできるだけ簡潔に示そうとしたもの」(あとがき)である。
イスラム教の成立の経緯は対象外であるが、それでも非常に多岐にわたる論点がきわめて明快かつ平易に、丁寧に解説されており、初学者にとってたいへんありがたい入門書となっている。
いずれの論点も興味が尽きないのだが、まず冒頭に記した疑問について、本書の記述に基づき考察してみたい。
ユダヤ教における「契約」と「罪」
この点については、上で述べた(ヤハウェがパレスチナに対するユダヤ人の権利を承認したという)認識と大きな齟齬はないようである。
もっとも、このような神の「恵み」はあくまでこの時点のものに過ぎなかったようだ。この後、神はつねにかわらずユダヤ人を祝福し続けたわけではなかった。
ダビデ王、ソロモン王と続く繁栄の時代を経て、紀元前十世紀後半に、ユダヤ人の王国は南北に分裂する。北のイスラエル王国と南のユダ王国である。どちらの王国でも基本的にヤハウェが崇拝されていた。
ところが、紀元前八世紀に、北王国はアッシリアの攻撃により滅亡する。このとき、ヤハウェは「沈黙」していた、つまり、北王国を救うために動くことをしなかった。何故か?
本書によれば、この事件に対して、南王国のユダヤ人たちは、ヤハウェへの信仰を存続させるために、ヤハウェの「沈黙」を正当化する論理を考えださねばならなかった。そして、このときユダヤ教に「契約」及び「罪」の概念が導入されることになった、とされる。
その論理とは次のようなものだ。
北王国が滅亡したのは、民の側に問題があったためである。実際、ソロモン王の時代以降、ユダヤ民族の中では周辺諸民族との共存の道を模索する過程で、(雨や豊饒をもたらすとされた)バアルやアスタルテといった異国の神も崇拝するようになっていた。そのような民の態度は、神の前で相応しい態度とは言えないものだった。
ここには「契約」の概念が前提として存在する。「神と民が契約の当事者である。両者に権利と義務がある。神は民に恵みないし救いを与え、民は神を崇拝する。」(p.59)
この「契約」の概念の導入によって、民の側における「罪」の状態が生じることになった。
つまり「沈黙する神の正当性を保持するという論理上の必要から、民の側の状態が神の前で相応しいものでないということが受け入れられねばならない」(p.62)というものだ。これが「罪」の状態である。
この状態は、かつての北王国の民だけの問題ではなく、南王国の民にもあてはまるものであるとされた。実際に、紀元前六世紀に南王国がバビロニアに滅ぼされたときにも「神は動かなかった」のだ。
さらに、民の状態が「罪」であると位置づけられることにより、民に対する神(ヤハウェ)の優位性が決定的となり、民にとってヤハウェ以外の神を選ぶことができなくなったとされる。一神教的態度の成立である。
以上のような本書の論旨を踏まえて、最初の疑問に立ちかえってみよう。
旧約聖書に示されているように、確かに神はユダヤの民にパレスチナの土地を与えたのかもしれない。しかし、その恵みを神が永遠に約束したという保証はまったくない。
実際にイスラエル王国とユダ王国は、いったんは外国の勢力によって相次いでカナンの地から一掃されてしまう。神は与えることもできると同時に、いつでも奪うことができるのだ。
神と人との「契約」の概念に基づく限り、人は、神の恵みを求めるのであれば、絶えず「義」とならんとすることを求め続けなければならない。
ぞっとするような想念が頭をかすめた。
もし、現在のイスラエルのユダヤ教徒たちにとって、最終的にそして完全にハマスをせん滅することこそが神の恵みの実現であり、結果的にヤハウェに対して自分たちの「義」を証明することになるのだとすれば、つまり宗教的信念こそが悪が生み出すのだとすれば、なんと皮肉なことだろうか。
民族の神から普遍的な神へ
つまるところ、以上のような民族宗教としての在り方に、ユダヤ教の限界と問題点があると言えそうだ。
このことは、キリスト教徒との対比によって、より鮮明になる。
本書によれば、キリスト教とは「民族中心主義であろうとするユダヤ教の大勢に対して、はっきりと普遍主義的な立場を主張しようとした運動」(p.26)であるとされる。キリスト教の神は、ユダヤ人と非ユダヤ人とを「分け隔てしない神」である。
ユダヤ教からキリスト教への発展において、「神」の状態が変化したという指摘は重要だと思われる。
結果的にそのような変化を生じさせたイエスの活動とは何であったかという点について、本書は端的に「「神の支配」の告知」であった、としている。このことは、例えばマルコ福音書では「神の支配が近づいた」と表現されている。
「神が支配する」という意味は「神が世界に対して肯定的に動く」ということであり、より平易に言えば「神が世界の面倒を見る」ということである(p.164)。
「神の支配が近づいた」というイエスの告知は、ユダヤ教における「罪の問題」を解消する。
つまり、人間の側がどのような状態にあるかに関わりなく、神が一方的に「支配」という方向に動くことによって、「契約」も「罪の問題」も無効になってしまう、そのような可能性を開いてみせたところにイエスの教えの新しさがあった、ということだ。
そして、この神の支配が及ぶ領域は、何らかの価値基準によって限定されない、またユダヤ人にも非ユダヤ人にも「分け隔てのない」普遍的なものである。
キリスト教会における「人による人の支配」
ところが、二千年間の伝道の歴史を通じて、現実には、キリスト教会は「人間の間に「分け隔て」を生じさせるような立場を選択している組織」(p.36)であった。
イエスが神格化され、また初期キリスト教共同体の中で指導者たち(神と直接的に繋がっている、あるいは聖霊に満たされている者たち)と一般のメンバーたちの間に階層が生じ、信徒集団が二分されることになる。そして、指導者たちと一般信徒たちとの間に「宗教社会的な従属関係」が発生する。本書において「人による人の支配」とされるものである。
「人による人の支配」は、本来「神と直接の繋がりをもたない者たちを見捨ててしまわない」という人間的な配慮から生じたものであり、このような支配体制に基づく教会の展開がキリスト教の最大の特徴である、というのが本書の立場である。
つまり、指導者たちが一般の信徒たちを見捨てず適切に指導するために「人による人の支配」が制度化されているというのだが、キリスト教会の在り方についてのこのような説明に対して、わたしはなにか違和感というか、居心地の悪さのようなものを感じてしまった。
「もしも」という仮定の話であるが、教会という絶対的なヒエラルキー構造のなかで頂点に昇りつめた一握りの指導者たちが、実は「神との直接的な繋がり」を「装っている」に過ぎないとしたら、また裾野に広がる無数の一般の信徒たちが自身の主体的な判断を放棄し、指導者たちから与えられる「神学的位置づけ」を疑いもなく受け入れているに過ぎないのだとしたら……そのような信仰の在り方は真に神の意図に沿ったものと言えるだろうか?
「人による人の支配」は「神」の真意から遊離してしまう危険性があるのではないだろうか?
あくまで仮定の話であり、「根拠のない言いがかり」ととられても仕方がない。しかし、キリスト教会の最大の特徴とされる「人による人の支配」は、まさに『カラマーゾフの兄弟』でイワンが語る叙事詩「大審問官」を彷彿とさせるような、どこか危うい体制であると感じた。
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少し脱線してしまったかもしれないが、強く印象を受けた部分を中心に『一神教の誕生』の読書記録を綴ってみた。
ここでは、主として、ユダヤ教における「契約」と「罪」の概念と、キリスト教を特徴づける「人による人の支配」の二つの論点のみを、ごく不十分に取り上げることしかできなかった。
本書ではそれらにとどまらない多様な論点が、幅広く、興味深く解説されている。必ずしも十分に理解しきれなかった論点もあったが、ユダヤ教やキリスト教に関わる基本的な問題をひとわたり概観し、さらに理解を深めるうえで必要に応じ立ちかえることができる、心強い格好のテキストであると思う。