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ドストエフスキーのカトリック・社会主義提携論―『作家の日記』より⑭―

奇妙なタイトルを掲げてしまったが、発端は、露土戦争(1877-1878)後の講和条約をめぐる話題である。

露土戦争後のコンスタンチノープルの行方?

1877年4月にトルコとの戦端を開いたロシア軍は、序盤は苦戦しつつも優位に戦局を運び、同年末にかけては、早くも講和の議論がロシアのジャーナリズムを賑わせはじめたようだ。

『作家の日記』1877年11月号では、講和条約調印後のトルコの首都コンスタンチノープルの帰属が論点の一つとされている。

ドストエフスキーは、雑誌『ロシア世界』に掲載された著名な歴史家であるニコライ・ダニレフスキーの論文に反論する形で持論を展開する。この議論がたいへん興味深いものだったので、今回の投稿で取り上げようと思った次第だ。

ダニレフスキーは、コンスタンチノープルからトルコ人を追い出した後は、これをあらゆる東方民族の共通都市とすべきであり、従ってロシア人も他のスラヴ諸民族と同等の権利で、この都市の領有を許される、という見解を主張したようだ。これに対して、ドストエフスキーは猛反発し、そのような結論は「驚愕に値する」と一蹴する。

……ロシヤ人とスラヴ民族の間に、そもそもいかなる比較がありうるのか? いったい誰が彼らの間に平等権を設置するのか? ロシヤがあらゆる点において、彼らとは同等でないのに、どうしてロシヤが同等の基礎において、コンスタンチノープルの領有に参加しうるのか、――おのおの小民族が各個分立するのか、それとも彼ら一同を団結しての話なのか? <中略> コンスタンチノープルは、われらのものでなければならない。われわれロシヤ人によって、トルコから戦い取らるべきものであるから、永久にわれらのものでなければならない。それはただわれらにのみ所属すべきものである。われわれはもちろん、それを領有した時、すべてのスラヴ民族をはじめ、そのほかわれらの欲する民族を、きわめて寛大な根本条件のもとに、入市させるだろうけれど、それは決してスラヴ人と共同の連合的領有ではないのである。……(岩波文庫版『作家の日記』(六)、一八七七年十一月、第三章。米川正夫訳。強調部分は本文では傍点、以下同じ。)

1877-78年の露土戦争は、オスマン・トルコ帝国領内のスラヴ諸民族の蜂起に端を発するものであり、スラヴ民族のうちブルガリア人、セルビア人、モンテネグロ人等が対トルコ戦争の当事者であったわけだが、ドストエフスキーは、これらの「小民族」と偉大なるロシアとの同等性、平等性などは決して認めない。
以前の投稿でも触れたように、ドストエフスキーにとっての「スラヴ主義」は、あくまでも「ロシアを最高盟主とする」全スラヴ民族の結合なのだ。

それにしても、「ロシヤ人とスラヴ民族の間にいかなる比較がありうるのか?」というストレートな表現には、あまりにも露骨なスラヴ諸民族軽視が透けて見えるようで、行き過ぎた「ロシア至上主義」の危うさを感じないわけにはいかない。

ドストエフスキー自身、「してみると、ロシヤがスラヴ民族のために奉仕したのは、どうやらそれほど無私無欲の行為でもなかったとみえる!」という批判が出てくることを予想し、それに対しては、次のように答えている。

……スラヴ民族に対するロシヤの奉仕は、現在これで終るのではなく、まだ数世紀にわたって継続すべきものであり、ただロシヤの偉大な中心勢力によってのみ、スラヴ民族はこの世に生きることができるのである。かような奉仕に対しては、決してなにものをもっても報いることができないのであって、もしロシヤが今回コンスタンチノープルを占領するとしても、それはただロシヤの目的と使命の中に、スラヴ問題をのぞいて、なお一つ最も偉大な最後的問題が存するがゆえにほかならぬ。これはすなわち近東問題であって、この問題の解決は、ただコンスタンチノープル一つにかかっているのである。しかるに、各民族と連合してコンスタンチノープルを領有することは、むしろ近東問題を殺すことになる。……(同上)

近東問題とは何か?

『日記』をここまで読んで、読者はさしあたり二つの疑問に直面する。
まず、「近東問題とは何か」という疑問であり、次に「それを解決する上で、スラヴ諸民族連合によるコンスタンチノープル領有がなぜ不都合なのか」という疑問だ。
普通であれば、前者から順番に説明がなされるべきだろう。ところが、ドストエフスキーの論理展開はイレギュラーであって、まず後者の問題についての議論が先行する。

ドストエフスキーの議論を簡単に要約すれば、コンスタンチノープルのスラヴ諸民族による集団領有制が不都合である理由は、まず、そのような場合にスラヴ系の小民族同士の間で勢力争いを始めるに違いないし、さらに、スラヴ民族の優先的権利に対して(同様に被征服民であり、かつての東ローマ帝国の主であった)ギリシャ人たちが異議を唱えることが必然だからだ、ということになる。

……ところで、もしロシヤがコンスタンチノープルを領有して、明々白々な力と偉大なる権威を有するに至ったならば、そういった問題の発生する可能を、ほとんど排除してしまうに相違ない。ギリシヤ人でさえも、ロシヤにはあまり羨望をいだかず、コンスタンチノープルの領有をさほどいまいましく思わないだろう。それというのも、ロシヤがあまりに明白な力であり、近東の運命のまごう方なき支配者であるからである。ロシヤはコンスタンチノープルを領有した時、スラヴ民族ならびにすべての近東民族の自由の番兵に立ったわけで、そのさい、彼らをスラヴ民族と区別しないであろう。……(同上)

ドストエフスキーにとって、ロシアの絶対的優位性は自明なのだ。

では、そのような、絶対的優位な足場をコンスタンチノープルに築いたうえで、でロシアが解決すべき近東問題とは何なのか?

……近東問題とは果たして何であるか? 近東問題はその本質において、正教の運命の解決である。正教の運命はロシヤの使命と結びあわされているのだ。しからば、この正教の運命とは何であるか? 地上の権力のためにすでに早くからキリストを売り、人類をして顔をそむけしめ、かくのごとくして、ヨーロッパの唯物主義と無神論のおもなる原因となったローマ・カトリックは自然の数(すう)として、ヨーロッパに社会主義をも生み出した。なぜなら、社会主義は、もはやキリストによらずして、神とキリスト以外に人類の運命の解決を目的とするものであって、カトリック教会そのものの内部において、キリスト教の根源が歪曲され、喪失されるにしたがって、その頽廃せるキリストの代わりに、当然、ヨーロッパに発生すべきものだったのである。かしこに失われたキリストの姿は、正教において、その清浄無垢の光を、完全に保ったのである。近く襲いきたらんとする社会主義に向って、新しき言葉が東方から射しのぼって、おそらくヨーロッパの人類を救済するであろう。これが近東の意味であり、ロシヤにとっての近東問題は、この中に存するのである。 <中略> しかし、ロシヤのこうした使命のためには、コンスタンチノープルが必要なのだ、それは近東世界の中心だからである。ロシヤは、皇帝を頭に戴く民衆とともに、自分こそはキリストの理想の捧持者であり、正教の新しき言葉は、自分の内部において偉大なる行為に移り、その行為はすでに今次の戦争とともに始まったということを、心中すでに意識しているのである。……(同上)

なんとも雄大な議論だ!

このような思想に、ドストエフスキーがローマ・カトリックをどのように見ていたかが如実に表れている。
カトリックは、「地上の権力のためにキリストを売り」、キリスト教の根源を歪曲し、喪失し、それによって神からも離反した宗教である、というのがドストエフスキーの見解である。
この議論は、おそらく、『カラマーゾフの兄弟』(1879-80)に挿入されたイワン・カラマーゾフによる有名な叙事詩『大審問官』に結実するものだろう。
ローマ・カトリックが、どのようにキリストを売り、その教えの根源を歪曲したのか、まさにそれこそが『大審問官』のテーマだからだ。

ローマ・カトリックと社会主義

ドストエフスキーは、ローマ・カトリックこそが社会主義を生み出した土壌であるとも主張する。
そして、その社会主義に正教の新しい言葉によって対峙し、ヨーロッパを社会主義から救済することが、近東問題の本質であり、ロシアの使命であると言うのだ。

筆者は、以前の投稿『ドストエフスキーの土壌主義』において、ドストエフスキーが考える正教の優位性について、次のように推論した。

ドストエフスキーにとって、「ロシア正教の宗教としての優位性の根拠」とは、「ただ正教のみが、キリスト以来の純粋に精神的な本質を保ち続けている」ことであったのではないか?

それに加えて、次のようにも付け加えることができそうだ。
「ただ正教のみが、ヨーロッパにおいて社会主義に対峙する力となりうるものである。」

ドストエフスキーにとって、正教は「社会主義の防波堤」とも言えるものであったのだ。

『ドストエフスキーの土壌主義』で述べたように、ドストエフスキーは『日記』1877年5月・6月号で、フランスをローマ・カトリックの盟主と位置づけ、そのフランスと熾烈に覇権を争うのがプロテスタントの代表ドイツであると論じたが、同様の論旨が11月号でも繰り返される。
さらに、11月号では、当時のヨーロッパ情勢下において、ドイツこそがロシアの味方であるとも断じている。
というのも、ドストエフスキーによれば、ドイツの鉄血宰相ビスマルク公は、自国にとっての最も恐るべき敵が「ローマ・カトリックであり、カトリックによって生み出された社会主義なる怪物であること」を見抜いていたからである。
「敵の敵は味方」ということらしい。

……ビスマルク公は、フランスから政治的生命を奪った後、社会主義にも一撃を加えようと考えている。社会主義はカトリックとフランスの継承者として、真のドイツ人にとっては、最も憎むべきものであるから、その源泉であり、根本であるフランスを、政治的に滅ぼしさえすれば、社会主義をもいと容易に片づけることができると、ドイツの代表者たちが考えているのも、無理からぬ次第である。しかし、フランスが政治的に没落したら、次のような事態のおこりうる可能性が、きわめて濃厚なのである。カトリックはおのれの剣を失った時、今まで長い世紀の間、地上の王者や皇帝の鼻息をうかがうのに急で、まったく軽蔑しきっていた民衆に、はじめて助力を求めるだろう。しかし、それはもはやどこへも行くところがないから、それでいま民衆にむかうわけであるが、民衆の中でも一番おっちょこちょいで、尻の軽い代表者である社会主義者に話しかけるのだ。彼らは民衆に向って、社会主義者が宣伝していることは、みんなキリストの説いているとおりだ、と言うだろう。……(同上)
……彼ら(カトリック)は彼ら(社会主義者)に言うだろう。「君がたは事を行うのに中心がない、秩序がない、君がたは全世界に分散した力である。ことに今はフランスの没落によって圧伏されている。だから、われわれが諸君の統一力となって、まだわれわれを信じているすべてのものをひき寄せてあげる。」とまれかくまれ、提携は成立する。カトリックは死滅を欲しないし、社会革命と新しき社会制度の時代は、間違いなくやって来る、こうして二つの勢力は疑いもなく協定し、二つの流れは相合するだろう。……(同上)

「カトリックと社会主義の提携」とは、驚くべき発想だ!

ローマ・カトリックは、社会主義が生まれる土壌となったにとどまらず、自ら、唯物論的な、無神論的な社会主義と協定(!)し、その運動を支える統一力(中心的な理念?)となるだろう、とドストエフスキーは予言しているのだ。
ドストエフスキーにとって、カトリックはもはや宗教組織ではありえず、歴史的に獲得してきた世俗の権力にしがみつく醜い勢力でしかなかったかのようだ。
それほどまでにも拭い難い憎悪を、ドストエフスキーは、カトリックに対して抱いていたということなのだろう。

東方の盟主たるロシア

ドストエフスキーは、ドイツの指導者たちが「社会主義を容易に片づけることができる」と信じているのは思い違いであり、「プロテスタント的精神」の過信であると述べる。

ドストエフスキーにとって、カトリックと提携した社会主義という「怪物」を阻止し、征服するように運命づけられたものは、あくまで「結合せる東方であり、東方が人類に向って発する新しきことば」なのである。

ともあれ、ロシアとドイツは共存を果たすものと考えられている。

 いずれにしても、一つだけ明瞭らしいことがある。ほかでもない、ロシヤはわれわれが自分で思っているより以上、ドイツに必要なのである。しかも一時的な政治上の同盟のために必要なのではなく、永久にである。結合せるドイツの理念は広大、荘重なものであって、世紀の底を見透している。ドイツとしては、われわれと分割し合うものなど、何もないではないか? ドイツの対象は西欧の全人類である。ドイツはヨーロッパの西部の世界を自己のものと予定し、そこにローマ的・ローマン的精神に代うるに、おのれの精神を普及させ、今後その指導者たらんと志している。そして、ロシヤには、東方を残しておくのである。二つの偉大なる国民は、かくして世界の相貌を一変すべき使命を担っているのだ。これは頭脳や虚栄心の生み出した設計図ではなく、世界そのものがそうできあがっているのである。……(同上)

西ヨーロッパの指導者としてはドイツが、そして「東方」にはロシアが、それぞれ予定されている、とドストエフスキーは言う。

この「東方」がどのような範囲を意味するものだったのか、歴史音痴の私にはよく分からない。
バルカン半島を含み、当時のドイツ領の東側に隣接する広大な領域を、漠然と想定すればよいだろうか?

だとすれば、ドストエフスキーの予言は、ある意味で、世紀をまたいで実現することとなる。
ロシアは、世界で初めての社会主義革命と第二次世界大戦を経て、文字どおり、西側諸国と世界を二分する「東側」陣営の盟主となるのだ。

ドストエフスキーは、よもや皇帝を戴く正教の国ロシアが、自身があれほどまで忌み嫌った「社会主義」の先頭に立つとは思いもよらなかっただろう。
あるいは、実はそのような可能性を予感していたからこそ、ますます強く社会主義を憎んだのだろうか?

唐突なようだが、前世紀にソヴィエト連邦という強大な社会主義国家を建設したロシア人の心性、あるいは国民的エネルギーのうちに、実は、ドストエフスキーの思想につうじるものがあったのではないか、そんな風に私は思ってしまう。

それは、あえて表現すれば、後進性ゆえの劣等感とないまぜになった強度の愛国心、領土的野心(拡張主義)、そして、人類の救済者としての絶対的使命感、といったようなものだ。

おそらく、そのような心性・精神性は、部分的には現在のロシア連邦にも受け継がれている。
その表れが、例えば、クリミア併合(2014)であり、ウクライナの内紛への介入(2014-)であり、領土割譲禁止を定める憲法改正(2020)なのではないだろうか。

もっともそれらの心性・精神性が、現在もなお正教への信仰と直接あるいは間接に結びついたものなのか、信仰とは全く無関係なものなのかは、よく分からないのだけれど。

現実の講和条約

なんともとりとめのないものとなってしまった文章の締めくくりとして、実際の講和条約について、簡単に言及しておこう。

露土戦争は首尾よくロシアが勝利をおさめ、1878年3月、サン・ステファノ講和条約が結ばれた。
これにより、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア等、オスマン・トルコ領内のスラヴ諸民族の独立が承認され、ロシアの軍事保護下に大ブルガリア公国が創設され、また、(コンスタンチノープルには及ばなかったが)黒海沿岸のトルコ領の一部がロシアに割譲された。

しかし、このようなロシアの勢力拡大を脅威と感じたイギリスおよびオーストリアが強く干渉したため、ドイツのビスマルクの仲介によって、同年7月、サン・ステファノ条約を修正し、あらためてベルリン条約が調印された。
この結果、大ブルガリア公国の領土が3分の1に縮小されるなど、ロシアの戦勝による利益は損なわれ、ロシアの南下政策にとって大きな打撃となったとされる。

ビスマルク公は、ドストエフスキーが期待をかけていたほど「味方」にはなってくれなかったようだ。

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