文章について
天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力である。
誰もが知るエジソンの名言だ。
ネットで検索すると、英語では “Genius is one percent inspiration and ninety-nine percent perspiration.” と言うらしい。
“inspiration”と“perspiration(汗、発汗)”で韻をふんでいるのがミソだ。
エジソンがこのとおりに言ったかどうか分からないが、どうやら、そうした意味の言明は実際にあったようだ。
「優れたひらめきを生かすのは努力次第」という趣旨だったのか、あるいは「どんなに努力しても良いひらめきがなければ徒労に終わる」と言いたかったのか、「ひらめき」と「努力」のどちらにより重点を置くかによって若干ニュアンスが異なってくる。
いずれにしても、1パーセントと99パーセントという構成比に、「ひらめき」は一瞬であり「努力」は忍耐を伴う粘り強い継続的な作業であるという含意が読みとれる。
急にそんな名言を持ち出したのは、よい文章もそのようなモノでないか、と思ったからだ。
「よい文章」というと、いかにもあいまいな表現だ。
たとえば素直な文章、人柄がにじみ出るような温かみのある文章、虚飾やてらいのない正直な文章、いずれもよい文章であるだろうけれど、ここで言いたいのは「ありきたりでない、非凡な文章」のことだ。
非凡である、すなわち凡庸でない文章は、そこにわずか1%でもなにか「ひらめき」のようなものがなければならない。
そして、その「ひらめき」を文脈の中にピタリと位置づけ、読み手に「なるほど」と思わせるためには、それなりの苦労や苦心という努力を重ねる、すなわち「汗」をかかなければならない。「よい文章を書く」という作業はそういうものではないだろうか。
「ひらめき」は、さまざまな生活の場面でおとずれる。
もちろん、本を読んでいるときや考えにふけっているときに「ひらめく」こともあるだろうが、わたしの場合、むしろ日課の散歩中や、風呂の中で、あるいはトイレで座っている最中に、「ひらめき」めいたものを感じることがある。
その「ひらめき」をどのように文章にするか?
たとえば、この文章を例に考えてみよう。
あるとき、ふと「エジソンの名言はよい文章にも当てはまるのではないか」とひらめいたとする。
せっかくの「ひらめき」なので、これを note に投稿してみようと思い立つ。
さて、ここからが、文章を作り上げるための苦心や工夫、すなわち「汗」である。
ああでもない、こうでもないと悩みながら文章表現の糸口を探るのだ。
ひらめき自体はあまりに抽象的なので、なにか「よい文章」の具体例に即して書いた方がいいのではないか? しかし、そうすると「文章について」の文章というより、当の「よい文章」の内容を長々と紹介する文章になってしまいそうだ。むしろ、ここでは、あまり長いものではなく、さらっとした軽い記事にとどめたい(もうすでにくどくどした粘着質の文章になっている気もするが)。
そこで、最低限、こんな問いを立ててみた。
文章にとって「ひらめき」とは何だろうか?
「ひらめき」とは、ふだんは見えていない隠れた世界の断片である、と考えてみる。
言い換えれば、日常生活の境界の向こうにある異世界への窓もしくは扉のようなものだ。
「異世界」などというとものものしいが、日常的な視点から少し外れたところに現れてくる世界と考えてもよい。
その世界は、モノゴトの本質にかかわるような何らかの大切な真実をはらんでいる。
読み手は、そうした日常性を超えた世界へとつながる断片あるいは窓をとおして、真実の一端を垣間見たような、真実をつかみとる手掛かりを得たような、そんな経験を味わう。
そう考えてみると、たしかに、よい文章にはそうした「真実のひらめき」が仕掛けられている、ような気がする。
さて、ひるがえってみて、この短い文章はどうだろうか?
「エジソンの名言はよい文章にも当てはまる」、そんな単純な思いつきを「ひらめき」と呼べるだろうか?
仮に呼べたとして、そのひらめきを「よい文章」として結実させるために、惜しみない苦心、工夫を尽くしただろうか?
(……)
どうやら舌足らずの駄文を連ねてしまったようだ。お粗末さまでした。
※タイトル画像は Daiki Nagamine さんから拝借しました。ありがとうございました。
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