電子書籍にまつわる雑感
2022年は、私にとって、電子書籍元年となった。
今年の後半に購入した本は、ほとんど電子書籍だ。
前にも書いたが、家が狭くて紙の本の保管スペースに余裕がないのだ。
そもそも私は自分の部屋がない。
四人家族で3LDKのマンションに住んでいるが、寝室を除く二部屋を、成人した子供たち(社会人の娘と大学生の息子)が占領している。
寝室は二台のベッドでほぼいっぱい。リビングに本を「積んどく」わけにもいかないので、紙の本は極力購入を控えざるを得ない。
その点、電子書籍は、どれだけ買おうと保管場所が足りなくなるということはなさそうなので、たいへん心強い。(もちろん財力に限りがあるので、いくらでも買えるわけではない。)
もともと、電子書籍にはずっと抵抗があった。
多くの人がそうであるように、本は紙で読むものだと思っていた。
カバーや装丁の美しさ、手に持ったときの重さ、紙のにおい、ページをめくるときの指の感触、どこまで読んだかが一目でわかる達成感。
「読書」とは、そういったものをすべて含めたトータルな営みであると感じてきた。
しかし、iPadを購入し、新聞を電子購読に切り替えたことをきっかけとして、抵抗感が徐々になくなり、何よりも保管場所の理由から電子書籍派に転向した。
とはいえ、決して紙の本に対する愛着が薄れたわけではない。「背に腹は代えられない」といった思いが正直なところだ。
電子書籍の威力を痛感したのが、今夏、(これも前に書いたが)久しく世界中を席捲している流行り病に感染し、ホテル療養を経験した時である。
一日三回、ホテルの一階に食事を取りに行くとき以外は、自室から出ることができない状況の中で、毎日タブレット端末で新聞が読めるだけでなく、新刊書をスマホで手軽に購入し、その瞬間からタブレットで読めるという便利さは、なにものにも代えがたいものだった。
先日、そのような便利さに一抹の不安を覚える些細なできごとがあった。
大手書店系の電子書籍リーダーを使用して、中山元著『アレント入門』(ちくま新書)を読んでいたのだが、ある日、続きを読もうと思ってiPadのアプリを立ち上げ、仮想本棚から同書を開いてみたら、それまでの読書記録(マーキングや傍線、書き込み等)がすっかり消えてしまっていた。
幸い、iPadと手持ちの iPhoneとの間で同期の設定を行っていたので、スマホの方から同書にアクセスすると、記録はすべて残っていた。
しかし、日常的に読書はタブレット端末の大きな画面で行っていたので、iPadの記録が消えたままでは具合が悪い。
そこで、アプリの運営会社のサイトの問合せフォームから不具合を通知し、修復方法について問い合わせてみた。
すると、早々に担当者からメールで具体的な確認依頼があり、該当の書籍タイトル、タブレット端末の機種名とOSのバージョン、リーダーのバージョン等を再度連絡すると、以下の趣旨の返信が届いた。
かなり苦労しつつも、なんとかアプリの初期化に成功し、あらためてiPadから『アレント入門』を開いてみると、読書記録がすべて復活していた。
一件落着であるが、電子ツールというものは、便利なようで、なかなか厄介でもあるな、とあらためて思って次第だ。
だが、そのような使い勝手の問題とは別に、今回アプリ運営事業者とのやりとりで気になる点があった。
「弊社サーバ側のお客様のデータを確認したところ、マーク、しおりの総数で○○件の登録がありました」という部分である。
ということは、利用者の個人的な読書記録は、アプリ運営会社から、逐一見られてしまうということなのだろうか?
そのとき、私の頭の中で、こんな情景が浮かんでいた。
目に見えぬサイバー空間の中に巨大な電子書庫が存在していて、膨大な量の書棚の一区画ごとに利用者のIDを記した小さなプレートが貼られている。
各区画の棚に並んだ電子書籍たちの所有権はIDの持ち主にあり、所有者は自分に割り当てられた区画の本を閲覧し、しおりを挟んだり、マーキングしたり、書き込みをして、また所定の位置に戻す。もちろん、他の利用者の書棚を覗いたりすることはできない。
しかし、電子書庫の管理者たち(いわばデジタル・ライブラリアンたち)は、あらゆる区画に自由に立ち入る権限を持ち、任意のIDの書棚の本を手に取り、勝手に中を見ることができる。
これはプライバシーの侵害ではなかろうか?
あらためて運営会社に問い合わせてみた。
こちらも速やかに返信があった。
履歴というのは、例えば「〇月〇日〇時〇分に書籍『△△△△』にマーク1件を追加」というものだ、という補足説明もあった。
とりあえず安心したが、こんな不安はいかにも「いまさら」であった。
そもそも、ほとんどすべてのデジタル・サービスにおいて、個人情報保護方針があらかじめ定められていて、利用者は契約時に必ずこれらの方針に目を通し、同意したうえで利用登録することになっている。
そのような建前ではあるが、現実にこれらの個人情報保護方針をその都度きちんと確認する利用者はあまりいないのではないだろうか。私などは、ついつい面倒で、たいていの場合ほとんど読まずに「同意」ボタンを押している。
「データは個人情報の保護に配慮して保存されている」
「担当者が確認できるのはマークやメモの登録・削除の履歴のみである」
けっこうなことだ。そうでなくてはいけない。
だが、問題はそこではないような気がする。
たとえ、立派な個人情報保護方針が策定され、それがきちんと遵守されていたとしても、それとはかかわりなく、「読書」という個人的な行為が利用者のあずかり知らぬどこかのサーバに逐一記録されているということ、そのことが問題ではないだろうか?
従来の読書の形は、(図書館で借りる場合は別として)紙の本をリアルの書店で購入して、その本を個人の所有物として読む、ということだった。
それを購入する際に、名前や住所を確認されたり、身分証明書の提示を求められたりすることはないし、買った本に自分で書き込んだメモが外部の記憶装置に記録されることもありえない。
ところが、電子書籍の場合は、自分がその書籍を購入して所有していることも、日々の読書の経過も、一つひとつの記録が、事業者のサーバに電子的に保存されるのだ。
そのような意味で、電子書籍は、本来、個人的な営為である「読書」というもののあり方を大きく変えてしまいかねないものである。
そこに、電子書籍の利便性にひそむ「危うさ」のようなものを感じてしまったのだ。
これからも電子書籍を利用する(利用せざるを得ない)としても、紙の本と電子書籍との間に存在するこの差異の意味について、しっかりと意識していなければならないのではないか。
そんなことを漠然と考えさせられた。
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