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『アンナ・カレーニナ』を読みながら

理由(わけ)あって、四十年ぶり?くらいにトルストイの『アンナ・カレーニナ』を再読している。

周知のとおり、若くて美しく生命力にあふれた既婚女性アンナ・カレーニナと軽薄だが情熱的で魅力的な青年将校ヴロンスキーとの不倫の物語だ。

古い文庫本。奥付を見ると、昭和四十七年二月発行、昭和五十年二月六刷版、よくぞ手元に残っていたものだと思うと感慨深い。
上中下の三巻本で、ようやく上巻を読み終えようというところだ。

今回、久しぶりに読み返してみて、意外にも身につまされたのは、妻に不貞をはたらかれるカレーニンの苦悩である。
彼は、政府の某省幹部、ペテルブルグの上流社会の名士であり、当然、誰からも尊敬され、一目置かれてしかるべき身分であったが、アンナからは軽くあしらわれている。カレーニンの指をぽきぽき鳴らす癖はアンナを不快にさせる。

アンナがまだ「過ちを犯す」前、ペテルブルグの社交界でヴロンスキーに付きまとわれ、相手をたしなめながらまんざらでもないアンナの様子を見て、また、そんな二人の仲が社交界の注意を引いていることに気づいて、カレーニンは不安になる。そして、悩んだ末に、ぜひともアンナに忠告しなければならないと決意するのだが、その決意に至るまでの逡巡が丁寧に描写されていて興味深い。

……彼は妻に対して、不信の念をいだいたことがないから、したがって、信頼の念をいだいているのであり、自分自身に対しても、そうあらねばならないといいきかせていた。ところがいまや、嫉妬は恥ずべき感情であるから、信頼の念をもたねばならぬ、という確信はくずれさっていなかったにもかかわらず、彼はなにか非論理的なわけのわからぬものに直面して、自分がどうしたらいいのかわからないでいるのを感じた。カレーニンはほかならぬ人生に直面したのであった。いや、彼の妻が自分以外の誰かを愛するかもしれぬという事態に直面したのであった。これは彼にとってまったくわけのわからぬ不可解なものに思われた。なぜなら、それは人生そのものだったからである。カレーニンはこれまでの生涯を、生活の反映としかつながっていない官界でおくり、そこで働いてきた。そして、人生そのものにぶつかるたびに、それから身をかわすようにしてきた。しかし、今彼の感じた気持ちは、深淵にかかった橋の上を悠々と渡っていた人が、不意に、その橋がこわれており、目の前に深淵を見いだしたときの気持に似ていた。その深淵は人生そのものであり、その橋はカレーニンの生きてきた人為的な人生であった。自分の妻が誰かを愛するかもしれぬという疑問がはじめて頭に浮かんだので、彼はその思いに思わず身ぶるいしたのであった。(新潮文庫『アンナ・カレーニナ 上巻』木村浩訳)

・・・・・・

私は、いつものように水辺の遊歩道を散歩しながら、これらの描写を思い起こし、そして特に脈絡もなく、次のようなことを考える。

「私」にとって外界のあらゆる事物、ジョギングする人や犬の散歩をする人、鳥のさえずりや水上バスのエンジン音、ビルや橋などの見慣れた構築物、はるか上空を飛翔する旅客機、それらの「私」を取り巻くすべてのものは、「私」の外側に存在するのだが、いずれも「私」の知覚と認識を通じて「私」の内面に取り込まれ、いわば「私」の心象風景となる。
それらは、外界に存在しながら、「私」に知覚され認識されることによって、「私」自身の世界を満たす個々の構成要素となるのだ。この世界は、「私」の意識が無に帰せば、いっさいが存在を停止する。当たり前のことだ。
そうであるとすれば、「私」の外と内との間に境界線を設けることに何の意味があるだろう? いっさいのものが、「私」の世界の構成要素であり、心象風景なのだとしたら。

カレーニンがこれまで悠々と渡っていた橋、彼が生きてきた「人為的な人生」とは、そんな風な、彼の内面世界の心象風景のようなものだったのではないだろうか。そこでは、彼の仕事、妻や子ども、社交界でのポジション等、彼を取り巻く世界の構成要素が、すべて彼の内面的要求に符合するように整然とあるべき場所に配置されていなければならない。
しかし、その世界の一角が、ふとしたことからほころびを見せると、その亀裂から「人生そのもの」である深淵が姿を現す。
ここでは、カレーニンの生きてきた「人為的な人生」と「人生そのもの」が対置されている。

では、カレーニンがこれまで身をかわすように避けてきた「人生そのもの」とは何か?

上の引用に続く文章の中に次のような一節がある。

……彼(カレーニン)は妻のことをあれこれ考え、妻がなにを考え、なにを感じているのかと考え始めた。彼ははじめて、妻の私的な生活、妻の思想、妻の希望を、まざまざと思い浮べた。すると、妻にも自分自身の生活がありうる、いや、あるのが当然だという考えが、あまりにも恐ろしいもののように思われ、彼はあわててその考えを追いはらおうとした。それこそ、彼がのぞきこむのを恐れていたあの深淵であった。思想と感情によって他人の内部に立ち入ることは、カレーニンには縁遠い精神活動であった。彼はこの精神活動を有害かつ危険な妄想と見なしていたからである。(同上)

カレーニンが恐れたのは、自分の最も身近な他者である妻が、彼と同様に自分の「世界」を生きていることを認めること、そして、他者である妻の「世界」が自分の「世界」の在りようを脅かすかもしれないという現実と向き合うことであった。それは、カレーニンにとってのぞき込むことさえ恐ろしい「深淵」であるのだが、しかし、それこそが「人生そのもの」なのだ。

折しも、カレーニンは、担当する法案の仕事がまさに大詰めという時期であり、「心の安らぎと精力がとくに必要な」ときにもかかわらず、アンナの軽率な振る舞いによって「こんな無意味な心配事」が自分に降りかかったことを苛立たしく感じている。なぜなら、それは、彼の「人為的な人生」の調和を乱すものだからだ。

しかし、「人為的な人生」と呼ばれたカレーニンの世界は、彼の内面に映し出された仮象に過ぎず、決して「人生そのもの」すなわち真の人生ではない。
真の人生とは、自分以外の他者が生きる「世界」を受けとめることであり、そして、その他者に対しても自分の「世界」を投げ出すことによって、他者とつながろうとすることである。それこそが、この世界に確かな実在を回復するための試みなのだ。たとえ、その試みが、果てしない深淵をのぞき込むだけに終わるかもしれない危険な賭けであるとしても。

今の私も、どこかカレーニンと同じように、日々、自分自身の内面に映る心象風景のような世界を生きていると感じている。
もちろん私の立場はカレーニンとは比べようもない。カレーニンが担うような国政上の重要任務と無縁であることは言うまでもないし、「無意味な心配事」に煩わされているわけでもない。むしろ、退職して仕事から解放されるという念願がかない、自由気ままな生活を満喫している。
しかし、勝手なもので、人間関係が希薄になると、「なにかが足りない」「これは真の人生ではない」などと思ってしまう。長く続くコロナ禍で、数少ない友人たちと飲みに行く機会すら制約されているという事情もある。

やはり人間には、他者の世界とつながるための回路が必要なのだ。

カレーニンとアンナとの間には、そのような回路がすでに閉ざされてしまっている。
アンナとヴロンスキーとをつなぐ回路は確かに存在したのだろうか?
リョービンとキチイは、どのように回路を結び、強めていくのだろうか?

私は過去に読んだ物語の記憶をすっかり失くしてしまっている。これらの問いの答えは、もう一度読み直すことで確かめなければならない。

散歩コースの橋の上で立ち止まり、私は、目前に広がる夕暮れのパノラマにしばし見入る。
たとえ仮象であり、心象風景に過ぎないものであるとしても、「世界」と、その個々の構成要素は、なんと美しいものだろう! その美しさは、それらの「世界」のいっさいのものが、本質的に「私」と無縁であり、「私」の手の届かないものであることによって、より一層輝きを増すようだ。

※ 画像はロシアの画家イワン・クラムスコイの「見知らぬ女」(1883)

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