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小林秀雄『ドストエフスキイの生活』(2)

ドストエフスキーの悪癖として名高いものとして、賭博依存がある。小林の伝記は、もちろん、この点についても詳細に触れる。

作家が最初にこの悪癖に手を染めたのは、1863年、愛人の大学生アポリナーリヤ・スースロヴァと落ち合うためにドイツの保養地ヴィスバーデンを訪れた時のようである。
以来、ドストエフスキーはルーレットに憑りつかれ、その体験に基づいて『賭博者』(1866)という作品が生まれるのであるが、その翌年、作家は、この『賭博者』の口述筆記を担当した二十一歳の速記者アンナ・スニートキナと再婚する。

ドストエフスキーとアンナは、結婚直後の1867年4月、作家の扶養親族たち(死別した前妻の連れ子や亡くなった兄の妻子たち)の圧迫から逃れるように外国に旅立つ。そして、旅行先で、またしてもドストエフスキーは賭博の誘惑に囚われてしまう。
彼は、妻をドレスデンに残してハンブルグに乗りこみ、十日間の悪戦苦闘の末に有り金を全て失って帰ってくる。すると、今度は、アンナも同伴で、雪辱を期してバーデンの賭博場へと向かうのである。
小林は、アンナの日記に基づき、その一部を引用しながら、ルーレットに呪われた新婚夫婦の悪夢のような日々を見事に要約している。

……カトコフから待ち焦がれた前借りを受けとると、二人は、バアデンの賭博場に飛んだ(六月廿二日)。アンナは既に妊娠していた。ここで七週間、二人は全くルウレットだけを頼りに惨めな日を送った。アンナは賭博生活の一喜一憂を仔細に日記に認(したた)めている。賭博を呪い、自ら悪漢と罵りつつ、一日もかかさずカジノに通っている日記に描かれた彼の姿は、確かに正気ではないが、彼女の忍従にも何か異様なものが感じられる。
 アンナが一緒にいても、ルウレットには関係ないことはわかったが、負けると、隣にポオランド人がいたからだとか、英国人の香水が匂いすぎたためだとか、彼はいくらでも原因を捜しだすので、何んにもならなかったのである。勝つとお祭り騒ぎだった。負けて帰るとアンナの足元に転がって大声上げて泣いた。家にあるありたけの金を持出すまでは承知しなかった。拒絶されると発狂するとか自殺するとか言って威かす。カトコフの金も無くなり、アンナの母親からの救助金も無くなり、結婚の指輪から、アンナの着物や靴や古帽子に至るまで、質屋を出たり這入ったりした。……

やがて金策が尽き果てて、二人はバーデンを去ることになる。アンナはその時の気持ちを、次のように綴っている。

「とうとう発つ事が出来て、私は幸福だった。この呪われた街にはもう二度と足を踏み入れまいと心に誓った。子供が出来ても、バアデンにはいくなと必度(きっと)言おう。想えばあんまり苦し過ぎた。」(1867年8月11日)


以上のようなドストエフスキーの異常な人間性は、ストラーホフが『地下室の手記』の主人公らに作家自身を重ね合わせているように、彼の作品世界において重要な役割を果たしたに違いない。

そして、彼の異常な人間性とともに、同様に重要な役割を果たしたと思われるのは、彼の異常な体験、すなわち、シベリアでの四年間の監獄生活である。

彼は、二十七歳の時に(1849)、ペトラシェフスキー・サークルと呼ばれる自由主義的な集会に参加したことを理由に逮捕され、死刑を宣告されるが、皇帝の恩赦という名目で減刑され、オムスクの監獄での四年間の徒刑に処せられた。この過酷な体験は後に『死の家の記録』(1861-62)に結実する。

ある小説家がオムスク監獄に勤務する兵卒たちから聞いた話を書き留めた記録によれば、ドストエフスキーは生活をともにしていた囚人たちからは好かれず、むしろ避けられていて、作家の方も囚人たちの仲間に入ろうとしなかったとされる。ところが、ドストエフスキーは兄に宛てた手紙で次のように一部の囚人たちを賛美する。

「泥棒達相手の四年間の牢中生活でさえ、結局人間を発見するという事で終ったのです。貴方は信じられるだろうか。ここには深い、強い、美しい性格を持った人々がいるのだ。粗悪な地殻の下にかくれた黄金を見附ける事は実に楽しいものです。それが一つや二つではない、いくらでも見附かるのだ。或る者は貴方だって尊敬せずにはおられまい、或る者は実際美しさに溢れている。」(1854年2月22日)

小林は、「後年のドストエフスキイの民衆に対する殆ど神秘的な信仰の種は、たしかにオムスクの監獄に播かれていた」と認めつつ、次のように述べる。

……兄への手紙や、「死人の家の記録」に見られる民衆賛美の言葉に何等空想的なものがない様に、ここから成熟した晩年の彼の民衆礼拝に何等浪漫的なものはない。ただあるものは異常さである。トルストイやツルゲネフの様に、民衆との広い尋常な接触の機会を持たず、この言葉の背後に足枷の音を聞き、囚人服の色を見ずにいられなかった人間の異常さがあるのだ。

小林は、さらに、次のように議論を深めていく。

注意深い読者は、彼(ドストエフスキー)が後年作中で創造した驚くべき人物の数々の原型が、「死人の家の記録」中の忠実な人間の素描のうちにある事に気がつく筈である。……彼が人間観察に就いて独特な自信を得た場所、人間心理の異様さを表現するあの精緻を極めた彼独特の技術を会得した場所は、非社会的分子からのみ成立した一つの社会であった。社会的常識や習慣を黙殺した人々が或る生き生きした暮しを立てている世界であった。彼の異常な資質は、異常な環境のうちにレンズの焦点を合わせたのである。(強調は引用者による。)

小林の議論は、死の家での過酷な経験を熟成させたドストエフスキーの後期の作品群が、それらの異常な体験と彼の異常な人間性との相互作用をつうじてはじめて生み出され得たものであったことを示唆するものである。

もしそうであるならば、世界や人生についての真理を探究し、高い普遍性を保ち続ける不朽の記念碑となった彼の文学の創作過程は、なんと苦渋に満ちた、痛ましいものであったことだろうか!

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