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村田沙耶香『星が吸う水』

村田沙耶香はきわだって性的な作家である……
と言うと語弊がありそうだ。そもそも人間は本来、性的な存在だからだ。
いやいや、決めつけてはいけない。正確には、人間の「大多数」が性的な存在である、というべきだろうか?

村田沙耶香がきわだっている点は、この事実から目を背けたり、糊塗したり、あるいはありきたりの装飾を施すのではなく、裸のままの「性」を真っ直ぐに見つめ、そこから既成の「常識」や先入観をことごとく取り払っていこうとする、その姿勢にあるのだ、と思う。
これは誰もができることではない。
私は、村田のそのような「作家としての果断さ」に、率直に打たれずにはいられない。

『信仰』(2019)以来、立て続けに村田の作品を読んでいる。
それらの作品の、ある意味で「露骨」とも思える性的な側面について note で触れるのは難しいと思い、敬遠してきたのだが、『星が吸う水』(2009)を読むに至り、感想めいたものを書きたくなった。

何を書こうというのか? それは書いてみないと分からないのだが……。

(上のサイトの「内容紹介」の文章は、『星が吸う水』ではなくて、同時に収録された『ガマズミ航海』の紹介文となっている。公式サイトとも言える出版社のサイトで、どうしてこのような間違いが生じるのか、理解に苦しむ。)

『星が吸う水』は、デビュー作の『授乳』(2003、群像新人文学賞)と、村田を一躍有名にした『コンビニ人間』(2016、芥川賞)とのほぼ中間に位置する時期に書かれた。三島由紀夫賞候補となった作品である。

この作品の主題は、主人公である「来年三十歳になる」鶴子の性生活であり、彼女の「性」についての独自の信念である。

鶴子は性欲がたまると股の間の突起物が勃起する。そして、勃起した突起物の先端から「何か」を排出することで、性欲を解放するのだ。「何か」というのは、男の精液のように実体のあるものではないが、鶴子は「確実に何かが抜けていき足の間がすっきりとする」ことを実感する。

鶴子の性行為には男女という観念が存在しない。以下は、年下のパートナーの武人との会話である。

「あのさ、なんかあたし、武人としてるとき、自分の性別がよくわかんなくなくなるんだけど」
「へー」
「勃起した、只の動物って感じで、なんか男とか女とかがなくなるんだけど」
「それって気持ちいいの? よくないの?」
「うーん……心地よくて、抜ける、って感じ。抜くと、すごくすっきりするんだけど」

村田沙耶香.『星が吸う水』 講談社文庫 pp.8-9. (Kindle版)

鶴子にとって、男女間の性器の形状の違いは、生殖に適合したしくみというよりも、「抜く」という目的のために最適化されたものである。

 鶴子の性器には穴が開いているが、何かを受け入れたと思ったことは一度もない。お互いに、抜くためにとても器用にこすりあっているのだと思っている。それは鶴子には自然な 感覚だった。

同上 p.45.

ひと言でいえば、鶴子にとっての性行為は、生殖や恋愛からは切り離されたもので、性欲の充足と解消それ自体を目的とした独立した行為なのである。そして、そのことについて、鶴子はなんら疑いも後ろめたさも抱いていない。鶴子の「性」は、もっぱら自分のために、自分自身が作り出す創造的な営みなのだ。

鶴子のそのような性のあり方は、きわめて特異なものであることは間違いない。
作品には、鶴子の同世代の友人として、梓と志保が登場するが、彼女らの性についての見方は鶴子とまったく異なるものだ。

このうちの梓の見方は、もっとも普通であり、ある意味で「常識的」であると言えるだろう。
梓にとって、女の「性」は恋愛の付属物であり、さらに言えば、恋愛の成就や、自身にとってより有利な結婚を実現するための「餌」であり「商品」なのである。
「女は自分をいかに高く売るかが大事」というのが梓の持論である。「女であることを利用しないと、こっちが利用されて終わる」のだ、と。
そして梓は、自身の女としての商品価値を高める努力を怠らない。そんな梓の考えに、鶴子は違和感を持つが、しかし否定し去ることもできない。

 梓にとって、結婚は一世一代の人身売買なんだろうな、と鶴子は思う。なので商品としての自分に傷がつかないよう、いつも努力しているし、なるべく高く売ってちゃんと未来まで相手に尊重されようと、今からしっかり土台を造ろうとしている。鶴子は、そういう梓がとても息苦しそうに見えるときがある。背中を撫でて、大丈夫だよもっと適当でいいよ、と言いたいが、その発言に本当に責任が持てるのかといえば、鶴子にはよくわからなかった。

同上 pp.35-36.

……基本的には、梓は恋愛をして愛情を受けて、セックスをする、そういう性的嗜好なのだろうなと思う。抜くことに必死になってしまう自分とは違って、とても丁寧に気持ちを込めて、身体を触れ合わせるのだろう。それがスタンダードなものかどうかはどうでもいいことで、梓だけの、唯一無二の、大切な性の形なのだと思う。……

同上 p.66.

もうひとりの志保は、「恋愛感情や性欲を持たない体質」である。
男友達から志保のメールアドレスを教えてほしいと頼まれたけどどうする?と鶴子に尋ねられた志保は、そのことをはじめて鶴子に打ち明ける。それは、志保にとって必死の「カミングアウト」だった。
志保は、そのような自分の「体質」に対する周囲の無理解に疲れ、それを可能な限り隠してきたのだ。志保は鶴子に言う。

「人によっては、自分が治すから自分とつきあおうといって聞かない人もいる。何もおかしくないのに、医者の治療を勧める人もいる。そういう人に説明するのって、本当に大変だし、 噓はつきたくないけど、大抵は、つかざるを得ない。だから、そういう機会を、なるべく少なくしたいの」

同上 p.79.

志保が自分の「性」のあり方に悩み、それを重荷として感じていることに気づき、鶴子は「悩まなくていいのだ」と強く言いたくなる。次に引用する箇所は、鶴子の信念が端的に表明される重要な部分だ。

……志保は鶴子と違って、自分を特殊だと思っているのかもしれない。でも、誰の性の形もそれぞれ特殊なのだから、志保の作ったその無という形の性は、少しもいびつではないと言いたかった。
 <中略>
 なぜ、わざわざ作ったものを、志保が隠さなくてはならないのか、納得できなかった。とっておきのオーダーメイドのコートを着ているのに、既製品を着ている人に変だと言われているような、奇妙なことに思えた。
 作るのをさぼる奴がいるから、こうやって面倒なことになるんだ。やっぱり、既存の概念なんてものは全部なしにしてしまうのが合理的なんだと、誰に向ってなのかはわからないが、鶴子のいつもの悪い説教癖がむくむくと腹の底から湧き上がってきた。……

同上 pp.81-82.


物語の終盤で、梓は、恋人から別れを告げられる。
梓はその男がたいして好きなわけでもなかった。しかし、梓は「妥協して一緒にいた奴に捨てられるのが一番こたえるのだ」とひどく落ち込む。
「女は鮮度なのだ。いくら努力しても、あたしはもう、このまま売れ残っていくのだ」と嘆く梓が、鶴子にはどうしても腑に落ちない。
鶴子は梓に「もともと売り物じゃないのだから、売れ残るなんてことはありえない」と言うのだが、梓は「女の価値はどんな男に見初められるかで決まるのだ。昔からそういう決まりなのだ」と答える。

鶴子は、梓の「性」に対する固定観念を突き崩したくて、ある突飛な行動に出る。
そして、自分の「性」は自分自身で作りあげればいいのだ、それが一番合理的なのだ、と証明しようとする。

しかし、そんな鶴子の振る舞いは、梓からも、そして志保からも「理想論であり、厳しい現実から目を背けるものだ」と一蹴されてしまうのだ。

鶴子の「突飛な行動」の中身の説明はあえて省くが、その部分やラストシーンも含めて、「突飛さ」は村田の持ち味と言えるだろう。しかし、私は、この作品のプロット自体には、さほど興味がない。

この作品における作者の最も大きな功績は、なんといっても鶴子の人物造形である、と思う。

鶴子にとって一番大事なものは、自身の「性」に対する自己決定権であり、現実にそれを実践しようとする。そして、その信念を周囲にも理解してほしいと思いながらも、決して自分の考えを押し付けようとはしない。
梓は鶴子を「現実から目を背けている」と責めるが、むしろ、鶴子こそが現実を直視し、現実に真っ向から対峙しているのだ。鶴子は、現実の厳しさに妥協して自分の本心を偽るようなことはしない。
鶴子のような人物は、世間一般で言われる意味での「幸福」には見放されるかもしれない。だが、彼女からは、自分が選んだ生き方を決して後悔しないという、そうした覚悟が感じられる。

繰り返しになるが、この作品の主題は鶴子の性生活であり、その「性」についての独自の信念である。
そのようなきわどい題材を扱いながら、作者は主人公を、自由で、潔く、優しく、すがすがしい人物として造形することに成功している。そこに村田沙耶香という作家のまぎれもない力量が現われている、と私は思う。

もちろん、これは私の個人的な感想だ。
鶴子の生き方については賛否の意見があるだろうし、この作品で描かれる題材そのものに対しても好き嫌いがあるだろう。読者によっては、嫌悪感を覚える者もいるかもしれない。

いずれにしろ、作者は、この作品を「書いた」というまさにそのことによって、功罪をひっくるめた作品の内容すべてに対する責任を自らに引き受けている。
作家は、なんでも書けるが、なにを書こうと、書いたものに対する責任を逃れることができない。作家は、なにを書くのか、どこまで書くのかを、常に問われているのだ。
そうした言わば「過酷な宿命」にさらされながら、村田はこの作品を書いた。

冒頭で、私が「率直に打たれずにはいられない」と書いた、村田の「作家としての果断さ」とは、まさしくそのようなものだ。

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