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#74 新渡戸稲造と賢治の相似形 その2【宮沢賢治とエミリィ・ディキンスン その12】

(続き)

○ 新渡戸稲造と賢治の相似形 その2

新渡戸稲造は、「武士道」出版の2年前である1898年に、札幌農学校教授として「農業本論」を刊行し、ベストセラーとなりました。
「農業本論」では:
「農業を軽視した国家は滅ぶという思想」
「農工商の均衡的発展」
「農工商の物資的交流と精神的交流」
「農民倫理の確立」
「地方(じかた)学」
などについて触れています。
「地方学」では、過疎化によって荒廃した農村の現状に対し、地方独自の考え方や産業振興があると考え、幅広く農村の研究を行う必要があると主張しました。

この「地方学」の流れを汲むのが、「遠野物語」で有名な柳田國男です。柳田は新渡戸から大きな影響を受け、国際連盟では新渡戸と共に働いた経験もあります。柳田は、岩手・遠野出身の佐々木喜善から物語を聞き「遠野物語」をまとめましたが、晩年の賢治も喜善と対面しており、喜善が亡くなったのも、賢治や新渡戸と同じ1933年のことです。

賢治の「軍馬補充部主事」という詩の中には、「生蕃(せいばん)」という、耳馴染みのない言葉が登場します。
生蕃は、台湾の先住民族の一部を指す言葉で、新渡戸は、同じ岩手出身の後藤新平とともに日本の植民地だった台湾統治を行なっていました。柳田の民俗学に登場する「山人」は、「生蕃」のイメージであるとの指摘もあります。

新渡戸や柳田や喜善は、賢治が学んでいたエスペラントの推進者でもあり、柳田は賢治と同様に、エスペランティストであるフィンランドのラムステッドの講演を聞いています。ラムステッドが公使を務めていたフィンランドは、国際連盟での新渡戸の功績として知られる「新渡戸裁定」の対象となった国の1つでもあり、不思議な縁も感じられます。

(続く)

2023(令和5)年10月4日(水)
(2023(令和5)年10月15日(日))

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