究極のダイエット その3

①今までの経緯


②高度肥満症って、ナニ


③腹腔鏡下胃スリーブ切除術って、どんな手術?


以上、前投稿参照

④なぜ、ボクは太っているのか❶

  太り始めるまで

ココまでの投稿では高度肥満症という病的な肥満と診断され、手術という『究極の』ダイエットの選択に至った経緯と病気や手術の内容を説明してきました。
今回は、ボクの生い立ちを振り返り、ココまで太ってしまった原因は何処にあったかを考えることで、肥満を気にしているけどイマイチ本腰を入れられない人への警鐘と参考にしてもらえればと思います。

ボクが生まれたのは父親が仕事の都合で当時住んでいた青森県弘前市。1970年の夏でした。

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生まれた時は平均的な体重で、その後2歳で東京都(荻窪)、5歳で兵庫県(尼崎市)と3年弱で転居を繰り返していましたが、身長は平均以上、体重は平均以下と、ガリガリと言えるくらいの体格でした。

転期を迎えたのは、小学校2年生の時。夏休みに父方の祖父の家にしばらく滞在している時です。
それまでは薄味を好み、ご飯やパンはほとんど食べなかったのに、急にお米大好き❤!になり、急にご飯をお代わりし、濃い味のおかずをガンガン食べる様になったそうです。
今まで少食だったことを気にしていた両親は食べたいだけ食べさせていたそうです。
また、その頃早朝にやっていた仮面ライダーなどの再放送を観るために親が起きる前に起床。ひとりでインスタントラーメンを作って食べるという生活も始まりました。
食事中には水も味噌汁も飲まず、1日2リットル以上の牛乳を飲むことも食事に輪をかけて悪影響を及ぼしたと思います。
あれよあれよという間に体重は平均を超え、小学校入学時には18キロ無かった体重が、4年生では45キロを超え、肥満予備軍になっていました。

  最初のチャンス

そんな中、平均的生活にもどる最初のチャンスと思われる変化がありました。運動を始めたのです。
小学校4年生の時、サッカーチームに入りました。毎週土曜の午後や日曜には校庭で練習です。小学校2年生でサッカーが盛んな埼玉県浦和市(現在のさいたま市浦和区)へ越していて、当時一般的だった野球よりもサッカーをやりたくなったのです。ポシションは左サイドバック。今なら瞬足でオーバーラップしてセンタリングですが、当時はその様なシステムはまだ行われず、守備一辺倒のポシションではありましたが、それでも準備運動から練習が終わるまでには相当量走り回っていました。
また、ほぼ同じ時期から硬式テニスのも始めました。クラスの仲の良い3人で、駅前のビルの屋上にあったテニススクールに週に1回通い出したのです。
食事量は相変わらずでしたが、ウエストに合わせた半ズボンが脚が細いせいでキュロットスカートの様になっていたので、なかなかの運動量だったと思います。


サッカーもテニスもそこそここなしてはいましたが、5年生になると中学受験をさせたかった父に、半ば無理やりさっかーを辞めさせられ、テニスのみに。少しずつ運動量も減り、結局平均的な体重となるまでには至りませんでした。最初のチャンスを逃したのです。

  最初の激太り

6年生の終わりに浅草へ引越をしたボクは、中学受験はせずに3学期は浦和まで通い、当時の蔵前国技館近くの区立中学に入学します。
ふたたびサッカーを始めたかったのですが、土はなく、浦和の学校と比べたら1/4もない様な校庭のその学校にサッカー部はありません。
せめて運動部に入りたかったのですが、早くから受験勉強をさせたい父の意向と、「一眼レフカメラ、買ってやる」の一言で、写真部に入ることに。
コレはコレで楽しかったのですが、結局のところ、運動は週に一回続けていたテニスだけになりましたが、それも3年生になると辞めてしまいます。
中学3年生の正月に遂に100キロを超えてしまうのです。

(つづく)



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