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グライス語用論 概説 後編

北大言語学サークル所属のもけけです。
第3回の今回は、ここまで見てきたグライスの公理の問題点を指摘し、それを再検討して発展させた理論であるホーンの理論を紹介します。


グライスの公理の問題点

前回までで確認してきたように、グライスの公理は、発話が字義通りの意味とは異なる「推意」を生じる仕組みについて説明を加えたという点で非常に画期的なものと言えますが、問題点も考えることができます。

第一に、公理の数です。グライスは四つの公理について「カントにならって(グライス 1998: 37)」設定したと述べています。しかし、グライス自身が議論の中で注記を繰り返していることからも示唆されるように、やや必然性に欠けるようにも感じられます。
そのため、加藤(2011: 90)でも触れられるように、会話の公理の数はしばしば再検討の対象となってきました。

第二に、公理間の対立です。グライスの理論では量の公理(1)(2)のように相反する方向性を持った公理が同じ区分としてまとめられているために、「衝突」のような例で「逸脱される公理」と「遵守される公理」とが同じ区分の下で対立する場合があり、モデルとしての分かりやすさが損なわれているように思われます。同様の問題は、様態の公理(1)(2)と(3)(4)の間についても指摘することができます。

ホーンの理論

ホーンの理論は、グライスの理論を発展させることを目指した研究の一つで、加藤(2011: 69-70)によれば、こうした研究は「ネオ・グライス語用論」とも呼ばれています。

会話の公理の再編

ホーン(2018: 246-249)は、ジップという言語学者によって提唱された「最小労力原理」という考え方を念頭に置きながら、話し手の最小労力のために言語形式に上限を設定して表現の単純化を推進する「話者の経済性」と、聞き手の最小労力のために情報内容に下限を設定して表現の多様化を推進する「聴者の経済性」との対立を想定し、この二つの方向性のせめぎ合いのような相互作用の下に会話の公理を再編します。
これらの力は「m個の異なる意味をすべて表す一単語からなる語彙」を生み出すような力と「それぞれの単語が1つの意味を持つm個の異なる単語の語彙」を生み出す力とも例えられ、音韻・形態・統語・意味・語用といった言語の様々な側面に影響を与えるものと想定されています。

ホーン(2018: 248-249)および澤田(2020: 36)の訳を参考にしながら、二つに再編された公理を以下に整理します。

  • Q原理 (聞き手志向的):

    • 十分な貢献をせよ。

    • できる限り多くの情報を与えよ。(ただし質の原理とR原理を踏まえること)

    • 下限原則は上限を与える含意を含み、グライスの量の公理(1)と様態の公理(1)(2)をまとめたものである。

  • R原理 (話し手志向的):

    • 必要とされるだけの貢献をせよ。

    • 必要以上のことを言うな。(ただしQ原理を踏まえること)

    • 上限原則は下限を与える含意を含み、グライスの関連性の公理と量の公理(2)と様態の公理(3)(4)をまとめたものである。

ここでは、四つの会話の公理は、「聞き手志向的」で可能な限りの情報を聞き手に提供することを求めるQ原理と、「話し手志向的」で必要最小限の情報だけを話し手が提供することを求めるR原理とに再編されています。
さらに、グライスの各公理間の類比的・対比的な関係も整理され、Q原理は量の公理(1)と様態の公理(1)(2)を反映する一方で、R原理は関連性の公理、量の公理(2)、様態の公理(3)(4)を反映するものとされています。

なお、これらの原理は、どちらか一方にのみ従うようなものではなく、二つの経済性のせめぎ合いに対応して、発話ごとに二つの原理がせめぎ合うようなものとして想定されています。

また、Q原理とR原理は相互に前提することとされていますが、Q原理に関しては、さらにグライスの質の公理を踏まえることも求められています。
ホーン(2018: 248)では、質の公理について「本質的に何にも還元できないものであると仮定する」とされており、加藤(2011: 90)でも「質の原理は、発話の構成のための規則というよりも、どの情報を提示するかしないかといった情報内容の選択に関わるものであって、他の3つの原理とは異なると考えられることが多い」と整理されています。
これらの記述からは、質の公理がQ原理とR原理のどちらかに含まれるものとして整理されるのではなく、情報を提供する際に踏まえるべき前提として扱われている理由の一端が窺えます。

語用論的分業

Horn(1984: 22, 27)は、次のような例文を挙げながら、二つの原理の「語用論的分業(division of pragmatic labor)」について説明します。

A: Black Bart killed the sheriff.
B: Black Bart caused the sheriff to die.

ここでは、より有標で複雑で冗長なBの文がQ原理の推意と結び付いて有標で非典型的な状況(意図的ではなく死なせてしまった)を表すと考えられるのに対して、より無標で簡潔なAの文はR原理の推意と結び付いて無標で典型的な状況(意図的に殺した)を表すと考えられることになります。

この例のような推意は、前回までに確認した推意に比べると構文に由来する特徴とでも言うべき性質を帯びており、前回までに見てきたような文脈依存度の高い「特殊化された会話的推意」に対して「一般的な会話的推意」と呼ばれるものの一例だと考えることができそうです。

ホーンの理論に関する私見

このようなホーンの理論においては、前述のグライスの公理の問題点が解消されていることが分かります。
すなわち、四つの公理が通底する方向性によって二つにまで整理されている上に、量の公理や様態の公理を分割することで、対立を孕んでいた公理の構成も分かりやすくなっているように思われます。
さらに、関連性の公理に対して量の公理(1)と様態の公理(1)(2)が対照的な方向性を有しているというように、従来のグライスの理論では捉えにくかったような関係性まで捉えやすくなっていると言えるのではないでしょうか。

ホーン(2018: 250-252)は、語用論的分業を論じる前の部分で、自身の理論を用いながら、前回までに見てきたような「特殊化された会話的推意」における「衝突」や「拒否」の例にも言及しています。
しかし、そこでは「2つの対立する原理と推論方法のうちのどちらが、与えられた談話文脈において優勢であるかを計算するアルゴリズムを生み出さなければならない。(中略)まだ決定的な解決を与えられてはいない」という記述もされています。

現に「特殊化された会話的推意」のような例の分析において、グライスの議論とホーンの理論とを接続することができるのか、接続できるとしたら具体的にどのような対応を示すのかについては疑問が残りました。
その意味で、前回のような分析では、あるいはグライスの理論の方が扱いやすく、先んじていると言える部分もあるのかもしれません。

まとめ

以上の全三回の記事で紹介してきたように、グライス語用論は、字義通りの意味である「言われた事柄」から言外に示される意味としての「推意された事柄」が導き出される仕組みを説明することを試みた理論です。

逸脱の類型や公理の構成などに関して、批判・再検討されてきた部分もありますが、語用論という分野の確立に多大な貢献を果たした理論の面白さを少しでも感じていただけたなら幸いです。

文献

  • 加藤重広(2011)「世界知識と解釈的文脈の理論: ネオ・グライス語用論の再構築」『北海道大学文学研究科紀要』134巻 pp.69-96 北海道大学

  • Laurence R. Horn(1984) Toward a new taxonomy for pragmatic inference: Q-based and R-based implicature. In: Deborah Schiffrin(ed.) Meaning, Form, and Use in Context: Linguistic Applications. Washington, D.C.: Georgetown University Press.

  • Laurence R. Horn(1989) A Natural History of Negation. Chicago and London: The University of Chicago Press.

  • ポール・グライス(1998)『論理と会話』清塚邦彦(訳) 勁草書房

  • ローレンス R. ホーン(2018)『否定の博物誌』河上誓作(監訳) 濱本秀樹・吉村あき子・加藤泰彦(訳) ひつじ書房

  • 澤田治(2020)「グライス語用論」加藤重広・澤田淳(編)『はじめての語用論』pp.24-40 研究社

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