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「自分を愛せなかったら……」フェミニストが『ドラァグレース』に勇気付けられる理由

「ル・ポールのドラァグレース」(以下略称RPDR)をご存知だろうか。世界的に有名なドラァグクイーンであるル・ポールがホストをつとめるリアリティ・ショーだ。

「アメリカズ・ネクスト・ドラァグスーパースター(アメリカの次のドラァグスーパースター)」を目指すドラァグクイーン(*)たちが、様々な課題をこなしながらしのぎを削り合う。

*……女性の姿をしてパフォーマンスを行う職業。伝統的にクィア男性が多いが、シス女性やトランス女性が就くこともある。

この番組は「『パフォーマンスや美意識を通してジェンダーを脱構築する破壊的アート『ドラァグ』をメインストリームのメディアで認めさせる』という偉業を成し遂げている。」と評価されるほど、世界的に影響力のある番組だ(日本ではNetflix、もしくはRPDR配信元であるWorld of Wonderのサービスに加入することで視聴可能。2020年5月現在、シーズン12が放送中。)

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なぜ日本の女性はRPDRに勇気付けられるのか?

近年は日本にも多くのファンがおり、私もその中の1人だ。シーズン1~10、11の途中、オールスター4をすでに視聴している。

日本では、RPDRが発信するメッセージが、女性を勇気付けるものとして多くの女性ファンに受け入れられてきた。私自身、フェミニストとしてRPDRにエンパワーされたと感じることは多い。

しかし、欧米ではRPDR内の描写が女性蔑視的であるとの指摘が一定数あり、個人的にもRPDR内の描写で引っかかってきたことはある。こうした矛盾をどう解消していくか。いちファン・いちフェミニストとして、フェミニズムとドラァグについて、考えてみたい。

その前に、1点お断りしたい。

ドラァグパフォーマンスの形は様々だ。RPDRに出演したドラァグクイーンによるパフォーマンスが、ドラァグの全てではない。RPDRに出演していないドラァグパフォーマーの数の方が、出演したドラァグクイーンの数よりもずっと多い。「○○こそがドラァグだ」と言いたくない。今回は、RPDRで見られるドラァグ・パフォーマンスに範囲を限って記事を執筆したが、ご了承いただきたい。

「自己を愛すること」へのポジティブなメッセージ

様々な体型・顔立ち・美意識・バックグラウンドを持つドラァグクイーンたちが、「女性」として堂々とパフォーマンスする姿。私はその姿に、女性である自分を重ね合わせ、クイーンたちに力づけられる。自分が「こうなりたい!」と思う姿を追い求め、ファッション・メイクなどで自分を女性として表現する。体格の大小、メイクのスタイル、肌の色、身にまとう服など、そのスタイルは様々だ。

「やせている方が美しい」、「なぜ二重まぶたに整形しないのか」、「色白でいることこそすばらしい!日焼けするなんてありえない!」……。女性をがんじがらめにするような、画一的な美の基準。女性の意識下に、誰が決めたかも分からないスタンダードを植え付ける排他的なメッセージを、私たちはあちらこちらで目にする。

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自分はその基準に当てはまっているだろうか。体重を50キロ以下にしないと。アイテープで二重まぶたに見せないと。クイーンたちの自信にあふれた姿を見ると、自分のそうした行動の動機を一度疑ってみたくなるのだ。「なぜ自分の姿を変えたいのか?」

 ル・ポールは、番組の終わりで毎回次の言葉をクイーンたちや私たち視聴者に投げかける。

 'If you can't love yourself, how in the hell you gonna love somebody else?'(「自分を愛せなかったら、他の人を愛せないでしょう?」)

 ル・ポールのこの大変有名な言葉について、私のフォロワーさんの1人にお話を伺った。RPDRファンのこの方は、ご本人を「フェミニスト志望」であると話す。ル・ポールのこの言葉について、次のような考えを持っているという。

 「ル・ポールの言葉についてですが…わたし個人がこの言葉で救われる、というよりも、人気の番組が毎回この言葉でしめくくられるということが社会的にすごくいいなと思っていて。

 うぬぼれキャラはいじりのネタ、自分のことをかわいい、大好きなんて言ったら変わり者扱いでSNSいじめのターゲット、とにかく謙遜が良しとされる日本のテレビの雰囲気とは全く違いますよね。テレビの中の人気者が毎週『まずは自分を愛しなさい』と発信してくれている事実、それが本当に素晴らしいと思います」
 
テレビ番組という大きなプラットフォーム上で、ル・ポールという世界的な有名人が視聴者に「自分を愛そう」と呼びかけることは大きな力を持つ。「ありのままの自分でいい、自分を愛しなさい」というメッセージは、クィアだけでなく、番組のあらゆる視聴者に受け入れられ、人々をエンパワメントしているのだろう。今回の記事で言えば、「自分に自信を持とう」というメッセージを受け取った女性たちをエンパワメントしてきている。

Googleで「自分のことが好き」と検索すると、「自分大好き女には注意!」などというタイトルをつけられた、「自己を愛すること」という言葉とネガティブなイメージ・人柄を結びつけるような恋愛系ハウツー記事が目につく。先ほども述べたが、画一的・排他的な「美の基準」に添え、と、女性たちを脅し型に嵌め込もうとするようなメッセージが私たちを取り巻いている。

そんな中で、「私はありのままの自分のことが好き/愛している」だとか「私は自分に対して自信を持っている」と、表立って示すことにはまだまだ勇気がいる。そんな中で、ル・ポールのこの言葉が、女性たちに対して「自分に自信を持つことの大切さ」を伝える大きな役割を果たしていることは間違いない。

繰り返される、「女性性」を求める描写

しかし、RPDRでは、さまざまな美を肯定しながらも、参加者たちに一定の基準に沿った「女性性」を求める描写も繰り返される。

 例えば、シーズン6では、MCのうちの1人であるミシェル・ヴィサージュが出場クイーンのアドア・デラノに「コルセットでウエストをしぼるべき」と指示をする。腰のくびれを強調することで、いわゆる「女性らしさ」を見せよ、ということだろう。

 女性の体型に関するステレオタイプを踏襲することをクイーンに求めることは、女性に対して二重の意味で美の基準を押しつけることに繋がるのではないか。「女性の装いをする」ドラァグクイーンに、ある画一的な「女性らしさ」の基準に沿うことを求める。それは、女性(自分を女性と自認する人々)に対しても、「女性はこういうものだ」とメッセージを発していることにならないだろうか。

 ただ、付け加えるならば、近年、体型・メイク・ファッションスタイル等、RPDRにおけるクイーンの表現は多様化してきてるように見える。胸の膨らみや腰のくびれを強調する/しない、ハイヒールをはく/はかない、つけまつげをする/しない、など。RPDRクイーンたちがパフォーマンスを通して、女性の様々な在り方を見せてくれることを期待している。

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スラングに潜むミソジニー

 RPDRの発祥の地・米国に目を向けると、日本のファンの視点からすると意外なことに、RPDRの描写が女性蔑視的だとの指摘も多くなされていることに気づく。頻繁に問題視されるのは、女性蔑視的とされるスラングだ。

 たとえば、RPDRのみならず、ドラァグカルチャーの中で頻繁に使われるスラングに”serving fish(魚をご馳走する)”、”fishy(魚くさい)”などがある。これらはドラァグクイーンが非常に「女性らしい」見た目をしていることを表すスラングで、RPDR内でも、しばしば褒め言葉として使われている。

 しかし、アシュリー・クラーク氏によるハフィントン・ポストへの寄稿によれば、スラングの辞典である「Urban Dictionary」での’serving fish’の2番目の語義はこのようなものである。「女性器が何日か洗われていないかのように、におうこと」(2)。女性器のにおいと女性を結びつけて揶揄することは、女性に対する侮辱だ。

 このスラングに限らないが、ある人(々)に対する侮辱的な意味を持つスラングを使う側が、「自分たちは褒め言葉(もしくは冗談)のつもりで使っていたのだ」と主張しても、この主張が侮辱的なスラングの使用を正当化しないのはお分かりいただけると思う。

「女性のアライでありたい」と語るクイーン

ドラァグ文化はこれまで主にクィア男性によって担われてきており、今でも、女性のドラァグクイーンの存在を認めないという声がクィア男性(もしくはシス男性)のドラァグクイーンからあがる、という問題もある。ドラァグ文化と女性はどう共存していけるのだろうか。 ドラァグ文化と女性やフェミニストは、共に進んでいけるだろうか。

RPDR(シーズン10)出場クイーンであるミズ・クラッカーが、フェミニストとして声をあげている。彼女は、自身を「女性ファンが多いフェミニストだ」であると言い、次のように語っている

「クラッカー(のスタイル)は、自分のあるがままを好きになること、それが全てだと思っている。こうしたメッセージは、『自分の娘にもそう感じ(自分のことを好きになること)て欲しい』と望んでいる母親たちにもはっきり伝わる、とも思っている」

クラッカーによると、ファンミーティングの列には母娘連れが多く並ぶという。彼女は、ドラァグクイーンとゲイ男性がいかに女性のより良き「アライ(ally、権利擁護や不平等解消のために共に動く人のこと)」になれるのか、その方法を模索するためのショーを開催する予定である、とホームページ上で表明している(注:現在、COVID-19感染拡大の影響により、ショーは延期されている)。 

ドラァグ文化の消費に声をあげたファンたち

また、女性やノンバイナリーの人たちなど、性自認が男性でない人たちがドラァグ文化に対する理解を深め、この文化を取り巻く問題に声をあげている。

先日、写真家 ヨシダナギ氏がドラァグクイーンを題材にした写真集『DRAG QUEEN - No Light, No Queen-』を発表し、この写真集を取り上げた記事で、ヨシダ氏はドラァグクイーンに対する自身の見解を述べた。しかし、ヨシダ氏の発言には、ドラァグクイーンがマジョリティから差別を受けてきた歴史に対する理解のなさが透けるのではないかと多くのRPDRファンが指摘した。

たとえば、RPDRファンのたこやきくんさんのnoteは、インタビュー内での「明るい場所が似合わない」という発言の問題性を、ドラァグの歴史に照らし合わせ指摘している。

なぜヨシダナギのドラァグクイーン崇拝が差別的なのか(たこやきくん)
https://note.com/dragculture_802/n/n3baabe98770d 

たこやきくんさんに限らず、RPDRファンの多くが、多くのマイノリティによって担われている文化を扱うならば、より慎重になるべきである、と批判している。例えば、ドラァグカルチャーの歴史や現状について調べ、理解を深めたうえで撮影に望んではどうか、と。

マジョリティに属する人間が、マイノリティに属する人々やその文化を表層的に「消費」する問題は、クィア文化(ここではドラァグ・カルチャー)に頻繁に起きている。ヨシダ氏の写真集は、その一例と言えるだろう。ドラァグ・カルチャーを表層的に捉え、作品とする姿勢に対し、ファンからは批判の声があがっている。

RPDRファン界隈では、そうした「消費」の問題に対する意識を常に持ちたいという発言も多い。ドラァグレースに出演するクイーンたちは、番組の中で自身のバックグラウンドを語ることがある。そうしたシーンで、つまり、様々なクイーンたちが自身の苦しい過去を涙ながらに語るとき、その涙をいわば「感動エンターテイメント」として消費していないだろうか。自分はきちんと敬意を払っているだろうか。

いち女性ファンとして、ドラァグ・カルチャーを表層的に消費することなく、敬意を払い理解を深めることは必要不可欠である。また、クィア文化へのサポートや、LGBTQ+の権利擁護・不平等解消のために、声をあげることなど、理解を深めたうえでどのように行動するべきか、ひとりひとりが考えなくてはならない。

ここで私が述べたことは、RPDRという巨大なプラットフォームに対するいち小意見にすぎないが、最後にこう言いたい。

RPDRは、様々な人々や私たち女性に、色々な意味でインスピレーションをくれる。私自身はどうありたいか。どう生きたいか。フェミニストとして何をどう考えるか。

執筆=夜明け
写真=2枚目画像は公式サイトより、他すべてUnsplashより


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