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「二重幅」は排他的な言葉になり得る? メディアが再生産する容姿への呪い

ここ数年、日本のTwitterでは美容に関するコミュニティが盛り上がりを見せており、雑誌やネット記事と同等かそれ以上に、美容に関する様々な情報がリアルタイムで発信されている。

かくいう私自身、美容の中でもコスメやメイクに特化してツイートするアカウントを運営している。今でこそ自身の一重瞼を活かしたアイメイクを確立していると自負しているけれど、アカウントを作ったばかりの頃は美容雑誌や他の美容アカウントのツイートをよく参考にしていた。

しかし、私はずっと違和感を持っていた。コスメブランド広告のモデルさんや美容雑誌のモデルさんの殆どが二重瞼であることに。そして、その中でアイメイクの手順を説明する時「二重幅」という言葉が用いられることが殆どなことに。

特に後者については、二重幅を持たない人はメイクを参考にしづらいし、受け手を二重幅を持つ人に限定する意味合いを持ってしまう。

そう思っていた私は、2020年1月下旬に

「不特定多数の方に向けてオススメする目的でアイメイクの手順を説明する時に安易に『二重幅』という言葉を使うのをやめませんか」

というツイートをした。



すると沢山の反応があった。多くは共感を示してくださるものだったが、中には疑問視する声もあったので、それに対する私の意見と共に次のように挙げていく。

「二重瞼の人にまで二重幅を使うのをやめようと呼びかけるのはおかしいのでは?」

これは少なくない方が誤解されていたようだけれど、「二重幅」という言葉そのものを使うのをやめようとは言っていないし、二重幅を持つ方がご自身のメイクを説明される時に「二重幅」という言葉を使うのは全く問題だとは思わない。

「二重や奥二重や一重の瞼ではそれぞれメイクの仕方は違うし住み分ける方が良いのでは?」

肌の色ごとにメイクが区別されていないように、瞼の形状によってメイクを区別する必要は無いと私は思う。肌の色によって乗せる色の映え方は違ってくるかもしれないが、その色をどう使うかは本人が決めることであって、他人が「あなたは○○だからこのメイクをしましょう」と決め付けてしまうのは勝手な話であり、瞼の形状についても同じことが言えると思う。

そもそも人の瞼を「二重」「奥二重」「一重」の3つに綺麗に分けられる筈も無く、これらに当て嵌まらない人は必ず出てくるので、区別しようとするのが土台無理な話であるとも思う。

「二重瞼のモデルばかり採用するメディアや広告がおかしいだけで、二重幅という言葉が一重瞼の人を排除している訳では無いのでは?」

「二重幅」という言葉が常に排除性を持っている訳では無いけれど、特定の場面と組み合わさることで排除される人が出てしまう恐れがある。例えば、特に受け手の瞼を限定しないメイクハウツーという場面で「二重幅」という言葉を使うと、二重幅を持たない受け手を暗に排してしまうことになる。

「二重瞼向き」と明記されているメイクハウツーで使用するのは問題無いけれど、そうではないのに「二重幅」という言葉を使うのはおかしい。受け手の瞼の形状を限定しないメイクハウツーであるなら「二重幅」では無く、「目を開けた時に〜mm見える位置」などと言い換える方が、より多くの受け手に伝わると思う。


ところで、共感してくださった方からはこんなエピソードも教えて頂いた。

「店員さんからアイシャドウブラシについて商品説明を受けている時、客の自分は一重瞼なのに「このブラシは二重幅に色を入れるのに最適なんですよ」と言われたことがあって残念な思いをした」

これは店員さんが接客している相手のニーズを見誤るケースであるが、他にも「自分は明らかに一重瞼なのに店員さんから勝手に二重瞼という前提で話を進められたことがある」というツイートを寄せられたので、どうやらこういった話は珍しいことでは無いようだ。

このことから、化粧品業界内の人たちが持つ認識の時点で客は二重瞼であることが前提になっており、二重瞼でない人は客の中にいないことになっているのでは?と私は推測している(もっと意地悪な言い方をすれば『二重幅を持たない人はお呼びで無い』という認識があるようにも思える)。

だとすると、多様な身体にスポットを当てられるべき時代においてその認識は「遅れている」と言わざるを得ない。

また、こんな話も見かけた。

「雑誌でたまに一重や奥二重のメイク特集が組まれたら、二重瞼化粧品で瞼を二重にしたり二重幅を広げたりするところから始まることがある」

先に言っておくと、個人の意思で二重瞼化粧品を使うことは否定しない。しかし、ただでさえ一重瞼・奥二重瞼向きメイクと銘打ったハウツー自体少ない中で、そこでも二重瞼でないといけないという認識を更に強めるような内容があると、場合によっては受け手を「一重瞼のままでは美しくない」と思わせ余計に追い詰めることになりはしないか。

実際、「一重瞼向きメイク特集で二重瞼化粧品を使うところから始まるのを見てとてもガッカリした」というツイートがあった。ここから「一重瞼のままでは美しくない」と思い込んでしまうまでの距離は遠くないと私は思う。

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ここで自分の話をしよう。私は生まれつき一重瞼だったが、その特徴を当時のクラスメイトに揶揄されることでコンプレックスに感じるようになり、13歳から22歳まで二重瞼化粧品を使って二重瞼にしていた。

一重瞼の自分に自信を持てず、短時間外出するだけでもわざわざ二重瞼を作る日々だったが、他人の瞼が一重であってもバカにしたり揶揄したりしない人が殆どなのだと気付いていくきっかけを重ね、人目のある場所でも素の一重瞼で少しずつ過ごせるようになった。今では自分の一重瞼にポジティブでいることが出来ている。

当時のクラスメイトが私に「二重瞼でないと美しくない」と思い込ませる呪いをかけることが出来たのは、クラスメイトもまたその呪いにかかっており、呪いを呪いと自覚せず人の目の形状を揶揄してしまうことで呪いを再生産していたからだ。

ではその呪いはどこから来たのかというと、登場するモデルさんの殆どが二重瞼だったり、メイクをする際は二重瞼であることが前提かのように打ち出したりするメディアだと言えると思う。そういうメディアが「二重瞼でないと美しくない」という呪いの生産・拡散に加担していると想像するのは難くないだろう。

だから改めて、美に関する全てのメディア、その広報の効果を併せ持つ業界に言いたい。一重瞼や二重瞼でないモデルさんを二重瞼のモデルさんの割合と同じくらい採用して欲しいということと、対象を特定しないメイクのハウツーで「二重幅」という言葉を使わないで欲しいということを。

そして最も大切なこととして、これらを形だけ聞き入れたり表面上のお願いとして受け取ったりせず本質を捉える為に、何故美は多様であるべき(というより既に美は多様なものなので、美を画一的なものとして捉える感性に疑問を持つべき)なのか、多様な美を打ち出すとはどういうことかを是非学んで欲しいし、学びを継続して欲しい。そうすることで、呪いを生産し振り撒いてきたことへの罪滅ぼしになり得るのでは無いかと私は思っている。

最後に、今現在読んでくださっている方に伝えさせて欲しい。あなたが人から見て美しかろうとも無かろうとも、あなたは揶揄されるべきでは無い(これは瞼の形状に留まる話では無く)。私たちは自分という存在を見た目の美しさで判別してくるものにNoを言う権利があるのだから。

執筆=飴子
写真=Unsplashより

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