番外:不完全な言語
2022年の北京オリンピックを見るにつけ、人間の作るルールというものはいかに不完全であるかということを認識させられる。
有史以来、人間が行ってきたことに完璧なものなどないということは自明であるがここまで不完全なものであることを私達が見せつけられている。その主な理由のひとりに通信技術の発達が自分自身と他者の考えが一致しないことを明確に炙りだしたことにあるのではないかと私は感じている。
人間と人間のコミュニケーションの主体は言語である。
これは母国語か否かに関わらず他に有効な手段はないだろう。
しかし、言語ほど不完全なツールもないことも事実である。
自分の考えや思いを言語化したとして、その意図が100パーセント受け手に伝わるとは限らないことは誰しも日常生活の中で経験しているだろう。
例えば、話相手と共通言語として持っている認識でも望んでいた結果が異なることがある。
よくあるのが待ち合わせの時間である。
14時に集合と決めたときの感覚である。
ある人は遅刻してはイケナイと思い、5分前には集合場所にいる。
とある人は14時ちょうどに集合場所に着けばよいと行動する。
またとある人は14時に集合場所から自分が見える場所までいればよいと考える。
等々・・・14時に集合と言っても受け手には不完全な言語なのである。
しかし、はっきりと現地に14時厳守で集合場所に居てくださいと言うのも人間としては面倒になってしまうものだ。
人間は元来、怠けるようにできており、また相手にいらん期待をしてしまうようにできているようだ。
しかし、手間を惜しむと少しずつ認識の差異が広がっていく。
2022年北京オリンピックでの例は混合ジャンプ団体のスーツ規定違反だ。
個人では問題にならなかったものが団体で違反になる・・・しかも複数の選手がだ。
どちらが正しいかは私には判断できないが、ジャッジする基準の言語表現に不完全なものがあったのではないかと推察される。
言語とはいかに難しいものかを無意識のうちに私達に突きつけてくるのである。
侮るなかれ・・・
言語によって夫婦関係が大きく変わることを私は今更ながら反省も込めて認識しているのである。
健常者でこの状態ならSDGsとはいかに遥かな道であるかは言うまでもないだろう。
困難な目標を掲げて未達成になったときの言語の不完全さを認識する必要があると私は思うのです。
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